茶道用語

硯蓋(すずりぶた)
懐石道具の一。本膳料理で後段の酒の肴を盛ったもので、懐石にも取り入れられ酒の肴を盛った。また干菓子器としても用いられる。天保8年(1837)刊『茶式花月集』に「銚子硯蓋持出酒をすすめ、挨拶有て引事常の如し。」とあり、現在の八寸のように用いられている。弘化4年(1847)刊『茶道筌蹄』に「総菓子盆」として「菊絵硯蓋 桐木地錫縁、菊の絵、花は胡蝶、葉は紺青なり、宗全好」とあり、干菓子器として挙げられている。山東京伝の文化10年(1813)序『骨董集』に「重箱に肴を盛ことは、元禄の末にすたれて、硯蓋に盛ことは、寛永年中に始りしとおもはる、但硯箱の蓋に菓などを載たる事は、古き記録或は歌集などに見えたり、(中略)近世好事の者、古へ菓を盛たるにもとづきて、硯箱の蓋に肴を盛しが始となりて、つひに一種の器物になりしなるべし、(中略)硯蓋に干菓子を盛しは、いにしへ菓を盛しなごりにや、とまれかくまれ肴を盛一種の器物となりしは、寛永以後の事なるべし、今さまざまの形を造かへて、硯蓋と称るは、原をうしなへる也」、篠崎維章の慶応4年(1868)『故実拾要』に「硯蓋とは硯筥の打かぶせの如蓋成物也、梨地、高蒔絵、金の沃懸等ある物也、凡家には喰積の台とて、種々の物を盛飾也、如此の物堂上には聊無之事也、都て堂上諸家中、年始并婚姻、元服、拝賀等の祝義、酒肴の時は、硯蓋に雉子の羽盛、海老の舟盛等を用る事也」とあり、寛永年間(1624〜1643)頃から用いられるようになったという。

須田菁華(すだせいか)
初代須田菁華(1862〜1927)は、文久2年(1862)金沢の商家に生まれる。初名与三郎。明治13年(1880)石川県勧業試験場陶画部を卒業し、京都に出て製陶を研究する。明治16年(1883)九谷陶器会社に入社、明治18年(1885)画工長となる。明治23年同社が解散。明治24年山代温泉に錦窯を築き、明治39年(1906)に自家専用の登窯「菁華窯」を築く。染付・祥瑞・安南・伊賀・万暦・古赤絵・古九谷などの彷古品に妙技を振るう。大正4年(1915)北大路魯山人(当時福田大観)が訪れ、魯山人に陶芸の手ほどきをする。江沼郡九谷陶器同業組合長。昭和2年(1927)没。二代菁華。明治25年(1892)〜昭和46年(1971)。初代菁華の子。本名吉次。三代菁華。大正5年(1916)〜昭和56年(1981)。四代菁華。昭和15年(1940)〜。三代菁華の子。金沢美術工芸大学洋画科卒業後、家業を継承するべく父、祖父に就いて陶法を修行。昭和56年(1981)三代菁華の死去に伴い、四代を襲名。

捨壷(すてつぼ)
所蔵の名品茶壷を卑下してに飾らず、にじり口あたりにころがしておくこと。武野紹鴎の門下 小嶋屋道察が嚆矢という。『南方録』に「捨壷といふ事あり。小嶋屋道察に真壷を求られしに、その比、沙汰あるほど見事のつぼにて、人々見物の所望ありしに、名もなきつぼかざる事いかヾとて、卑下して出されず。ある時、客衆常のの約束にて参られ、腰かけより人を以て、今日我等ども参候事、第一壷一覧大望ゆへなり。御つぼかざられず候は場ゞ入まじきよし申し入れらる。 道察拠なく、にじり上りの脇の方に口覆ばかりしてころがしおき、むかひに出られたり。客くぐりを開て見るに、脇につぼをこかし置たり。へ御かざり候へと申入しに、道察出て、重々御所望候故、出しては候へども、へ上げ申すべき壷にても候はず。せめて御通りがけにと存、捨置申候。そのまヽ御覧候へとの挨拶なり。しかれどもいくたびも断にてつゐに一覧のヽちにかざれしとなり。この壷則小嶋屋の時雨と後には名を得たり。この所作を人々感じ、捨つぼとてはやりたる事なり。宗易云、尤時にとりては左様のはたらきもあるべき事なれども、只所望の上、壷を出すほどならば、にかざりたらんはおとなしき所作なるべし。捨壷むつかしき事なり。勿論またまねてなどすべき事にあらずと云々。」とある。

砂子(すなご)
金箔、銀箔を細かくしたもの、またそれを用いた料紙や蒔絵の装飾技法の一。一面または部分に細かい金箔、銀箔をまいたもので、竹筒の一端に目の細かい網を張り、その中に細かな金箔、銀箔を入れ、網を通すことで指をより細かくさせながら、漆や礬水(膠を溶かして明礬を加えた液)などを塗った上にまく。細かくまかれた箔が砂のように見えることからこの名がある。金箔を用いたものを金砂子、銀箔を用いたものを銀砂子という。染織にも応用される。

洲浜(すはま)

洲浜紋
州浜とは、海に突き出た洲のある浜辺をいい、州浜形は、州浜を上から見おろしたような輪郭に出入りのある形をいう。輪(円)を三角形に三つ組み合わせたような形から、江戸時代は「みつわがた(三つ輪形)」とも呼んだ。平安時代に、貴族の間で、慶事や催しの折り、州浜にかたどった台に岩木・花鳥・瑞祥のものなど種々の景物を載せ飾り、のちに正月や婚礼の島台として肴を盛るようになった。『古今和歌集』に「同じ御時せられける菊合に、州浜をつくりて菊の花植ゑたりけるに、くはへたりける歌  吹上の浜のかたに菊植ゑたりけるをよめる 菅原朝臣 秋風の吹上に立てる白菊は花かあらぬか浪の寄するか」とある。菓子の州浜は、弘安年間(1278〜1288)京都の松寿軒で初めて作られたとされ、水飴・大豆粉・白砂糖などが材料で、三本の竹を用いて横断面を洲浜形にし小口切にしたもの。家紋にも用いられる。

炭点前(すみてまえ)
茶事のとき、亭主が客の前でまたは風炉に炭をつぐ所作。濃茶あるいは薄茶を点てるのに理想的な湯の煮え加減(湯相)になるように炭の加減(火相)を整えるために行う。濃茶の前に炭を直すものを初炭といい、濃茶を点てたあと薄茶を点てる前に直すことを後炭(ごずみ)という。炭点前に使われる炭は、ふつう道具炭と呼ばれ、橡(くぬぎ)の炭で、種類は胴炭・管炭(くだずみ)・割管炭・枝炭三本立・枝炭二本立・毬打(ぎっちょう)・割毬打・点炭・車炭があり、それぞれ炉用・風炉用があり、炉用は大きく、風炉用は小振り。炭道具としては、香合炭斗羽箒火箸釜敷灰器灰匙などがある。永禄9年(1566)の『古伝書』に「すみ取もち出るなり、まかおろし候時、きゃく人座敷をたち、すこし休息するあひた、座しき其外の仕置をなし、ちゃのゆあり」とあり、亭主が炭斗を持出し釜をおろしたところで客は席を立っており、珠光紹鴎の頃には客に炭点前を披露する形式は成立しておらず、炭をついだり直したりするのは裏の仕事であったとされる。元亀三年間(1572)頃の『烏鼠集(うそしゅう)』では「一流にハ、主人炭斗もちて出たる刻に客立也、又ハ、主人の火をなをすを見て客立也」とあり、炭を直すところを見てから客が退出するものものあり、次第に炭点前が表の仕事になっていき、利休没後の文禄・慶長の頃には炭点前を客が拝見するのが一般的になったという。

炭斗(すみとり)
炭点前のとき炭を組み入れ、香合羽箒火箸を添えて席中に持ち出す器。最初食籠を転用したが、やがて籠や瓢を用いるようになり、更に各種の木の箱を使うようになったという。『山上宗二記』に「炭斗 紹鴎籠、宗久に在り、昔は籠の手、又食籠はやる、当世は瓢箪まてなり」、『茶道筌蹄』に「唐物籠 竹組 ト組あり。和物籠 竹組利休形 有馬土産、卒啄斎好、寐覚籠、ト組、藤組、宗全好。菊の檜縁高 利休形 正親町帝へ進献の形なり 杉の木地。瓢 利休形 手付は元伯好。神折敷 一閑張、大は元伯好、小は原叟好。葛桶 一閑張、元伯好、大は底に輪なくして深し、小は底に輪ありて浅し。炭台 檜、利休形なり。桑箱 利休形、勝手物、釜の仕懸仕舞に用ゆ、老人侘者は座敷に用いてもよし。」とあり、炭台は、足付き四方隅切で、口切や席披き、台子に使われる。他に神折敷、唐物籠が真の位の炭斗とされる。風炉用の区別は元禄時代以降という。

諏訪蘇山(すわそざん)
初代諏訪蘇山(1852〜1922)は、嘉永4年(1852)金沢市馬場6番町に父藩士諏訪重左衛門好方。母ていの子として生まれる。初名好武。義兄任田旭山に陶画法を学び、東京で陶器による塑像の制作を行う。明治12年石川県勧業試験場に、明治13〜17年まで九谷陶器会社に招かれ、明治22〜29年にかけては石川県立工業学校で彫刻科の助教諭の職にある。明治40年京都に移り五条坂で独立。青磁、白磁、彩磁のほか窯変の法など釉薬の研鑽に努め、中国の砧青磁の写しを得意とした。また朝鮮古窯址の調査を行なう。余技として漆器も製作した。大正6年帝室技芸員となる。大正11年(1922)歿、71才。二代諏訪蘇山(1890〜1977)初代蘇山の姪。名は虎子。官和会会員。三代諏訪蘇山(1932〜2005)陶芸家米澤蘇峰の次男として京都に生まれる。京都市立美術大学陶芸科卒。富本憲吉、近藤悠三、清水六兵近衛氏に師事。のち諏訪蘇山の後継者として移籍。昭和45年(1970)三代目諏訪蘇山を襲名。光風会会員・審査員、日展会友。平成14年(2002)古希を機に蘇山を三女に譲り引退。玄心と改名。四代諏訪蘇山(1970〜)三代蘇山の三女。名は公紀。母は12代中村宗哲。京都市立銅駝美術工芸高等学校漆芸科卒。成安女子短期大学グラフィックデザインコース映像専攻卒。京都府立陶工高等技術専門校成形科・研究科終了。京都市伝統産業技術者研修陶磁器コース本科終了。父三代諏訪蘇山釜に従事。平成14年(2002)四代諏訪蘇山を襲名。官和会会員。蘇山の印は初代が楕円、二代が丸印、三代が角印。

宋胡録(すんころく)
日本におけるタイ古陶磁の総称。寸胡録、寸古録とも書く。宋胡録の名は、タイ中北部のスワンカローク(Suwankhalok)の名から転じたというが、当時の窯場はスワンカロークの北20qのシーサッチャナーライという。1238年タイ北部にタイ民族による初めての独立国家スコタイ王朝ができ、第3代ラームカムヘン王の時代に支配地域を拡大、1292年頃から元朝に入貢したが、このとき中国から連れ帰った陶工によって始められたとされ、王都のスコータイと共に窯業が行われた。黒釉、柿釉、白濁釉、黒濁釉、青磁、鉄絵などを生産し、皿、鉢、壺などの器皿類のほか、鮭瓦、タイル、人形、仏像などがある。白化粧を施した上に鉄絵で魚文、花文を描き、透明釉をかけたのが一般で、14〜15世紀ころに多く焼成され、15世紀半アユタヤ王朝とスコタイ王朝のタイ北中部の争いが起り、スコータイとシーサッチャナーライの窯は閉ざされ、職人達は他の都市に流れ、北部のカロンやサンカンペン、パーンなどの窯が興ったという。素地に鉄分がある胡麻土に特徴があり、ソコタイと呼ばれるスコータイのものは灰色の粗目の土に砂が噛み、スワンカロークは粘性があり灰白色あるいは狐色に発色して微細な黒胡麻が見えるものが標準という。日本には桃山時代から江戸初期にかけて舶載され、灰釉・鉄絵の蓋物が合子や香合などとして珍重された。「柿の蔕香合」が最も有名で、キンマと呼ぶ嗜好品の容器として大量に製作されたもののようで、果物のマンゴスチンの形をしたものが香合として取り上げられたもの。