茶席の菓子

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桜井甘精堂(さくらいかんせいどう)
長野県上高井郡小布施町。文化5年(1808)創業。松代藩が毎年秋に将軍家へ献上していた小布施栗を用いて初めて菓子を作ったのが桜井甘精堂初代・桜井幾右衛門。栗を粉にひいて作りあげた「栗落雁」で、その後加賀藩や松代藩の御用菓子となり、元治2年(1865)には京都伏見宮家から真菊御紋章の栗落雁調製を仰せつかるが、明治以降作られなくなる。文政2年(1819)には二代・武右衛門が「栗羊羹」を創製した。  桜井甘精堂 栗菓

桜餅(さくらもち)
濾し餡を生地で包み塩漬けした桜の葉を巻いた菓子。 関東では小麦粉を薄く焼いた皮で餡を巻いた物で、関西では道明寺粉を蒸かして作ったつぶのある餅で饅頭のように包んだ物。関東地方では関西風の桜餅を特に道明寺と呼ぶ。関東風の桜餅は文政13年(1830)喜多村信節の『嬉遊笑覧』に「近年隅田川長命寺の内にて、桜の葉を貯へ置きて、桜餅とて柏餅のやうに葛粉にて作る、始は梗米にて製せしが、やがてかくかへたり」とあり、享保2年(1717)桜の名所として知られた江戸向島の長命寺の境内で、同寺の門番であった下総国銚子の山本新六が売り出したのに始まるという。

笹屋伊織(ささやいおり)
京都市下京区七条通大宮西入花畑町。享保元年(1716)創業。初代 笹屋伊兵衛は伊勢田丸町の人。当地で菓子職人をしていたが、御所の招聘により上京「笹屋」の暖簾を掲げたという。明治に入り六代目当主が初代の出身地である田丸姓を名乗る。また同時期に御所から百官名の一つである「伊織」の名を授かり現在の屋号となる。代表銘菓の「どら焼き」は、江戸末期に五代目伊兵衛が創出したもの。東寺の僧侶の副食となる菓子づくりを依頼され考案されたもので、最初は境内で作っていたらしく、寺にあった銅鐸(どら)を焚き火の火で熟して小麦粉、砂糖などを入れた生地を薄く焼き、その皮で棒状に練ったこし餡を何重にも巻いてつくったという。このどら焼が評判となり、東寺の銅鑼を熱して皮を焼いたことから、弘法大師の命日にあたる毎月21日に限定して販売するようになり、現在では命日をはさんで前後3日間(20・21・22日)のみ販売される。

笹屋守栄(ささやもりえ)
京都市北区衣笠。昭和17年(1942)千本上立売で創業。「笹屋伊織」より大正6 年(1917)別家した「笹屋湖月」より暖簾分けされたという。昭和36年(1961)現在のわら天神前に店を構える。「わら天神」は安産守護の神様として信仰があつく、よく乳がでるようにと安産祈願の甘酒の授与があり、その甘酒を配合した「うぶ餅」が名物で、毎月戌(いぬ)の日、九の日または土曜日のみ販売される。

三友堂(さんゆうどう)
香川県高松市。明治5年(1872)創業。初代は高松藩に仕えていたという。武者小路千家に伝来し六代真伯の時に高松藩松平家に献上され、大正12年(1923)の関東大震災に被災し失われた「木守」が、これを惜しむ人々の手で、残った断片を入れて再現されたとき、二代目が松平家の名物蘇生を祝って銘菓「木守」を創案した。

東雲(しののめ)
岩手県の菓子司「丸中」の銘菓。山胡桃と胡麻と米粉を混ぜ、シロップを入れて練り上げ、型に入れて成型した菓子。胡桃の実を明け方の空に浮かぶ雲、胡麻を塒を飛び立つ小鳥の群姿に見立て東雲と名付けたという。そのまま食べられるが餅を焼くように軽く炙ると香ばしい餅の風味も味わえる。

清水屋(しみずや)
静岡県島田市。享保6年(1721)清水屋五代目伝左衛門が、島田宿に長逗留していた紀州浪人の置塩露庵(おしおろあん)より甘酒皮の饅頭づくりの秘法を伝授され、従来の薬饅頭にかえて酒素饅頭を創作し、その後参勤交代中の松江侯松平不眛公の目にとまり、「一口で食べられる大きさがいい」と助言を受け「小まん頭」を作り街道一と称さたという。

松華堂(しょうかどう)

愛知県半田市。江戸後期の創業。名古屋では茶席の生菓子・干菓子として多く使われている。


薯蕷饅頭(じょうよまんじゅう)
山芋をすりおろし砂糖と粉を加え混ぜ合わせた生地で、餡を包んで蒸した饅頭。しょよまんじゅう。上用饅頭ともいいうが、特に白くて高級なものを上用という場合もある。薯蕷はヤマノイモの漢名。「薯(しょ)」も「蕷(よ)」もヤマノイモの意。天保8年(1837)起稿『守貞漫稿』に「薯蕷饅頭 じやうよまんぢうと云、京阪近年の製なるべし、餡同前上製也、山のいもを以て皮とす」とある。塩瀬では、始祖の林淨因から五代目の紹絆が元へ菓子製法を学びに行き、帰国後中国の宮廷菓子に学び薯蕷饅頭を作り出したという。

汁粉(しるこ)
主に小豆を砂糖で甘く煮て、中に餅や白玉団子などを入れた食べ物。餡の違いによって、漉し餡の「御前汁粉」、つぶし餡の「田舎汁粉」、粒餡の「小倉汁粉」と呼ぶ。関西では御前汁粉を「汁粉」「漉し餡のぜんざい」、田舎汁粉を「善哉(ぜんざい)」という。関東で「善哉」は餅の上にあんを載せたもので、関西で「亀山」と呼ぶ。『嬉遊笑覧』には「今は赤小豆の粉をゆるく汁にしたるを汁粉といえども昔はさにあらず。すべてこといふは汁の実なり」とあり、『和菓子の系譜』は、本来は餡の汁の中に子(実)として餅を入れるので餡汁子餅であり、略して汁子、転じて汁粉になったとする。

推古(すいこ)

虎屋の銘菓。和三盆糖で造った紅白の干菓子で、きめ細かく上品な風味とコクのある甘みが特徴。意匠は法隆寺金堂の欄干に見られる卍崩しの模様をかたどり、法隆寺が推古朝に建立されているための銘という。


末富(すえとみ)
京都市下京区松原通室町東入ル。明治26年(1893)創業。銘菓「野菜煎餅」「うすべに」「両判」が有名。初代が、京菓子の老舗「亀末廣」で修業し、暖簾分けし、亀屋末富を名乗る。初めは東本願寺の御用を務め、やがて妙心寺、知恩院、唐招提寺などにも出入りが許されるようになり、二代目竹次郎の頃から茶道の家元の御用を務めるようになる。当代は三代目山口富蔵。昭和12年(1937)生。関西学院大学経済学部卒業。東京銀座「松崎煎餅」にて1年修行後、父のもとで家業に従事。昭和45年(1970)「亀屋末富」三代目を継承。平成元年(1989)株式会社「末富」社長。著書に『京菓子読本 』、『京菓子歳時記 』、『京・末富菓子ごよみ 』など。

巣ごもり(すごもり)
長野県飯田市のいと忠の銘菓。卵の黄身で練り上げた黄味餡を、オリジナルのほどよい甘さの高級ホワイトチョコレートで包み込んだ和洋折衷生菓子。ホワイトチョコレートと黄味あん独特のコクが調和し、まろやかな舌ざわりの菓子。松に巣を作る鶴のめでたさを唄った曲「鶴の巣ごもり」から名づけられたという。

洲浜(すはま)
大豆を焦げないように煎って外皮を除きそれを砕いて粉末にした洲浜粉に水飴と砂糖を練り混ぜ、棒状にし、三方向を細い麺棒等で押し成形し、切り口が洲浜形になるようにした菓子。弘安年間(1278〜1288)京都の松寿軒が創製したといわれる。大豆粉に水飴と砂糖を練り混ぜた生地で作った菓子は元来豆飴と呼ばれていたが、豆飴で洲浜形を作ったものが流行ったため、この生地をも洲浜と呼ぶようになり、洲浜形の菓子を作るところが減った結果、形としての洲浜より、その生地自体を意味するようになったという。『嬉遊笑覧』には、「すはまは、洲浜にて其形によりての名なり、もと飴ちまきなり、麦芽大豆を粉にして練り、竹皮に包みたるものなり、又豆飴ともいうなり、今も大豆粉を飴にて練り、茶食とすもの是なり」とある。

すや
岐阜県中津川市。元禄年間(1688〜1703)創業。初代赤井九蔵が中仙道中津川宿に「十八屋」の屋号で酢の店を開く。大田南畝(蜀山人)の享和2年(1802)の『壬戌紀行』に「十八屋」の名があるという。七代目の頃(明治期)に菓子屋となる。「すや」の名は「酢屋」から。

関の戸(せきのと)
深川屋の銘菓。赤小豆のこし餡を白い求肥で包み、その上に阿波の和三盆糖をまぶした餅菓子。歌舞伎の「積恋雪関扉」(つもるこいゆきのせきのと)にちなみ、鈴鹿の嶺に降り積もる白雪になぞらえたと伝えられる。「御室御所御用所 関の戸 服部陸奥大掾」と書かれた外箱の内に収められた総螺鈿の菓子箱が現存し、天保元年(1829)光格上皇から陸奥大椽の官位を賜り、御室御所に納められていた。

善哉(ぜんざい)
関東でいう汁粉のこと。『守貞漫稿』に「京坂にては、専ら赤小豆の皮を去ず、黒糖を加へ、丸餅を煮る。号て善哉と云。江戸は赤小豆の皮を去り、白糖の下品或は黒糖を加へ、切餅を煮る。号て汁粉と云。京坂にても皮を去りたるは、汁粉又は漉餡の善哉と云。江戸にて善哉に似たるをつぶしてつぶしあんと云。又こしあんの別に全体の赤小豆を交へたるを鄙汁粉と云。」とある。善哉の語については、『嬉遊笑覧』に「祇園物語又云、出雲国に神在もちひと申事あり、京にてぜんざいもちと申は是申あやまるにや、十月には日本国の諸神みな出雲国に集り給ふ、故に神在と申なり、その祭に赤小豆を煮て汁をおほくし、すこし餅を入て節々まつり候を神在もちひと申よし云々いへり。(中略)また神在餅は善哉餅の訛りにて、やがて神無月の説に附会したるにや。尺素往来に、新年の善哉は、是修正之祝著也とあり、年の初めに餅を祝ふことと聞ゆ。善哉は仏語にてよろこぶ意あるにより取たるべし。」とあり、『佛説無量壽經』の「於是世尊告阿難曰。云何阿難。諸天教汝來問佛耶。自以慧見問威顏乎。阿難白佛。無有諸天來教我者。自以所見問斯義耳。佛言。善哉阿難。所問甚快。發深智慧真妙辯才。愍念衆生問斯慧義。」(ここに世尊、阿難に告げて曰く、いかんぞ阿難、諸天の汝を教えて仏に来し問わしむるか。自ら慧見を以って威顔を問えるかと。阿難、仏に曰く、諸天の来りて我を教えるものあることなし。自ら所見をも以ってこの義を問うのみと。仏の曰く、善いかな阿難、問えるところ甚だ快し。深き智慧、真妙の弁才を発し、衆生を愍念せんとしてこの慧義を問えり。)から来た語とする。

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