茶席の菓子

               は            

花あそび
風流堂の銘菓。和加子夫人好み。松平不眛侯好みの「山川」をベースに、花びらのように雛あられを散らして、桃の節句を表したもの。菓名「花あそび」は武者小路千家和加子夫人の命名による。

花岡(はなおか)
長野県東御市田中。創業大正元年(1912)。初代の花岡健吾が、小諸の「田村屋」で修業をした後、大正元年、東部町祢津に和菓子と飴を中心に扱う卸中心の製造問屋「花岡菓子店」を創業。昭和初期に田中に移転。昭和55年(1980)三代目となった利夫より、食材用の信濃グルミの生産高日本一の東御市の胡桃を生かした「くるみ菓子」を創作している。

葩餅(はなびらもち)
白餅を丸く伸ばし、その上に紅色の菱餅、白味噌餡、ふくさ牛蒡をおいて、二つに折った菓子。明治のはじめに京都の川端道喜が裏千家11世玄々斎の依頼により茶の湯の菓子として創った。玄々斎が慶応2年正月の宮中献茶の際に下賜された菱葩(ひしはなびら)を砕いて饅頭の原料に混ぜ初釜用の主菓子とし、東京遷都の後、許しを得て裏千家初釜用の「御菱葩(おんひしはなびら)」の創作を依頼したという。菱葩は、宮中の正月行事である「歯固(はがため)」に由来し、歯固に用いられた品は時代により変遷があるようだが、源高明(914〜983)の『西宮記』の天徳五年(961)正月一日に「内膳供御歯固、大根、瓜、串刺、押鮎、焼鳥等、付進物所、進物所例云、正月元日早朝、供奉屠蘇御膳事、猪宍二盤、一鮮、二焼、押鮎一盤(切盛置頭二串)、煮塩鮎一盤(同切置頭二串)」とある。江戸時代初期の『後水尾院当時年中行事』に「いつの頃よりの事にか、其やう、まづ御さかづきに三方一ツに、ひし花びら、こぶ、かちぐり、くしがき、かずのこ、あめ、五辛等、さまざまの物をとり入て、御前にまゐらす、御はしをとらるヽまでもなく、むかはるヽばかりにて、撤して庇におきて、中臈下臈あまたすヽみよりて、彼さまざまの物をとり分、ひし花びらのうへにつつみかさねて、女中上中しもにたぶ」とあり、歯固に用いられた品を菱花びらの上に包み重ねて食べている。川端道喜に伝わる『御定式御用品雛形』の絵には、三宝の上に、縦四枚、横三列の十二枚の白い葩が並び、その上に紅の菱餅が載り、その上に押し味噌、竹の皮で包んだ飴、野老、搗栗、榧の実などの一番前に鮎が二匹並べてあるといい、同家に伝わる話か、鮎が牛蒡に変わり、公家百官雑色に至るまでに、葩の上に菱餅をのせ、牛蒡をのせ、味噌をつけて渡したという。川端道喜の「御菱葩」は、餅粉に砂糖を少量加えたものを蒸し、薄く丸く延ばし、その上に、同様にした赤の餅皮を菱形に切ったものを付着させ、蒸かし上げた牛蒡と白味噌餡を置き二つに折ったもので、以前は牛蒡が餅皮より出ていたが、今は牛蒡が餅皮の中に包まれている。味噌餡が柔らかいため着物を汚す者が多いからという。

羽二重餅(はぶたえもち)
餅粉を蒸し、砂糖・水飴を加えて練り上げた、福井県の餅菓子。明治38年(1905)福井県福井市の松岡軒の二代目・淡島恒が当地で隆盛であった絹織物「羽二重」にあやかると同時に先代絹重こと淡島重兵衛が丸十印奉書紬の製造を家業としていたところから「羽二重餅」の名称をもって新しい菓子を製造創業発売したのがのはじまりという。 他に羽二重餅の元祖を称しているのは、弘化4年(1847)創業の錦梅堂(福井市)が、福井藩主松平家の御用達であった初代が考案し、献上したのが起源としている。ただ、 福井県下の羽二重織の起源は明治20年(1887)3月福井市に群馬県桐生森山芳平の職工 高力直寛を招聘し伝習したのがはじまりとされることろから、羽二重餅の名称はそれ以降のことと考えるのが妥当か。
松岡軒 羽二重餅 40枚入

引千切(ひちぎり)
雛祭りに京都で食べられる菓子。宮中の儀式で、御着帯の祝いなどに用いられた「戴餅」「小戴」に由来し、戴餅は丸めた餅の真ん中をくぼませ、そこに餡をのせたもので、引千切はその土台の餅に柄のようなものがついている。昔の職人が注文をさばくのに餅を丸めるひまがなかったので、引きちぎって製造したのが始まりといわれる。「引千切」の名も「引きちぎる」ことからきているという。その形があこや貝(真珠の貝)に似ていることから「あこや餅」とも呼ぶ。

姫小袖(ひめこそで)
讃岐の和三盆糖と寒梅粉で作った打菓子で、中に漉し餡が入っている。姫小袖の名の由来は、この菓子の表の綸子の模様を紅白に染め分けた形から名付けられたという。松江藩の御留め菓子で、藩御用の折に特別に使われ、一般には販売が禁止されていた。明治維新の折には、一度絶えてしまい、明治の代に復活させたもの。 一力堂菓子帳に依れば、嘉永年間当時は「沖の月」の御銘が付いていたという。
一力堂 姫小袖 15個入

風流堂(ふうりゅうどう)
島根県松江市。明治23年創業。初代内藤竹二郎が、明治22年に松江藩御用菓子司森脇家の業務を承継し創業。二代目の内藤隆平が復元した松平不眛侯好みの「山川」は金沢の長正殿、長岡の越の雪と共に日本三大銘菓と数えられている。(写真は風流堂寺町店)

深川屋(ふかがわや)
三重県亀山市関町。創業寛永年間(1624〜1629)。初代服部伊予保重は甲賀深川郷の人で、元は伊賀の土豪であったが織田信長に追われ甲賀に移り町人となり、その後、関に移り住み、銘菓「関の戸」を考案し深川屋を創業したという。天保元年(1829)七代目服部吉右衛門のとき光格上皇から陸奥大椽の官位を賜り、御室御所の御用達菓子司を仰せつかる。店舗は天明四年(1784)の建物。当代は十三代目。

mサ屋(ふくさや)
長崎県長崎市船大工町。寛永元年(1624)創業。カステラで有名。初代が、ポルトガル人よりカステラ製造を伝授され、引地町に店を構えたという。六代目市良次の頃、引地町から、現在の船大工町に移転。初代以来「avの字を商標としていたが、12代清太郎が、新しい商標として「蝙蝠」の商標を定めた。蝙蝠(こうもり)は中国では慶事と幸運の印としておめでたいものとされていて、また、蝙蝠の「蝠」の字が「福」と同音「フウ」であるところからという。全国的な知名度では文明堂には劣るが、通の間では福砂屋のカステラは文明堂より評価が高いといわれる。カステラの底に双目糖(ザラメ糖)が残るのが特徴。

福ハ内(ふくはうち)
鶴屋吉信の銘菓。手亡の白餡に卵黄を混ぜた桃山生地で、お多福豆を模って焼いたもの。中に白小豆の餡が入っている。毎年12月1日から2月3日まで期間限定販売で、箱は杉製で竹の対角線が入っており豆まきの枡を表し、包み紙には富岡鉄斎の「このうまき大多福豆をめしたまへ よはひをますは受合申す」という賛と画家山本春挙のお多福豆の絵が入っている。

富久豆(ふくまめ)
たねやの節分の日の歳時菓子。つくね芋に片栗粉と砂糖などを混ぜたものを木型で型取り、乾かしてから食紅と烏賊墨で目鼻や髪を描いた、縦15センチ、横11センチのお多福面と、紅白に染め分けた砂糖を炒り豆にからませた豆菓子130グラムが入った干菓子。1月16日から2月3日の節分までの期間限定販売。日保ち20日。

本家玉壽軒(ほんけ たまじゅけん)
京都市上京区今出川通大宮東入ル。慶応元年(1865)創業。初代が、井筒屋嘉兵衛という屋号で西陣織の織屋を営む傍ら菓子を商い始め、妙心寺や大徳寺御用達となり、明治になり妙心寺の初代管長に名を戴き屋号を「玉壽軒」と改め、菓子づくりを専業としたという。もとは千本通今出川上ルにあったが、大正5年(1916)現在地に移転。

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季節の茶菓子
 
 
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