茶席の菓子

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遊びかん(あそびかん)
風流堂の銘菓。1cm角のサイコロ状にした一口サイズの羊羹で、紅羊羹、黒糖、柚子、柿、抹茶、生姜の6種類の味がある。外側はシャリシャリして中はしっとりとしている。

和泉屋(いずみや)
長野県佐久市。大正9年(1920)創業。

いと忠(いとちゅう)
長野県飯田市。明治元年(1868)「糸屋」横前忠吉が小問物店を始め、通称「糸忠」と呼ばれる。昭和30年和生菓子の製造を始め、昭和45年屋号を「いと忠」と改める。昭和59年第20回全国菓子大博覧会にて「巣ごもり」が名誉金賞を受賞。平成元年第21回全国菓子大博覧会にて「結び羽二重」が名誉金賞を受賞。平成6年第22回全国菓子大博覧会にて「うめゆら」が金賞を受賞。平成10年第23回全国菓子代博覧会にて「桃のワルツ」が全菓博会長賞を受賞。平成14年第24回全国菓子大博覧会にて「フルーツな巣ごもりたち」が金賞を受賞。

亥子餅(いのこもち)
陰暦10月上亥の日に新穀で作られる餅。玄猪餅(げんちょもち)。鎌倉時代の有職故実書『年中行事秘抄』に、「亥子餅事 或記云、盛朱漆盤立紙四枚、居御臺一本上、女房取之供朝飼、次召蔵人所鉄臼、其上分擣、令為猪子形、以錦嚢之挿於夜御殿帳畳四角」(朱塗りの盤四枚に紙を立て、台の上に据え、女房がこれを取り、朝飼(あさがれい)に置く。次いで蔵人所の鉄臼に餅を入れて搗く。猪子形に作り、寝所の四隅に挿す)、鎌倉時代の事典『二中歴』に「十月亥子 群忌隆集云、十月亥日、作餅食之、令人無病也。」「亥子餅七種粉、大豆・小豆・大角豆・胡麻・粟・柿・糖」、応永29年(1422)の『公事根源』に「豕子餅 上亥日 此餅は内蔵寮よりそなへ奉る。朝飼にてきこしめす。十月の亥日餅を食すれば、病なしといふ本説あり。この事いつ比よりはじまるともみえず。延喜式に載たれば、往古よりはやありける事ならんかし。承安四年にさた有て、大外記頼重師尚など勘文をまゐらす。それも本朝のおこりをばたしかにも申さず。みな本書本説をのせたり。」とある。

外郎(ういろう)
本多屋の外郎(ういろう)こしあん(2本入り)16包抹茶(2本入り)8包
米粉に、黒砂糖・水などを混ぜ、型に入れて蒸した菓子。元の順宗皇帝の礼部員外郎の役職にあった陳延祐(陳宗敬)が、1386年、元の滅亡に際し日本に帰化し、陳外郎と称し、その子の大年宗奇が将軍足利義満の招きで京都に移り、明国の薬「霊宝丹」を伝え、この薬が効能顕著として時の天皇から「透頂香」の名を賜り、後に外郎の薬として「ういろう」と呼ばれるようになる。宗奇が自ら作り外国信使接待の時に供した菓子は、評判となり、外郎の菓子として「ういろう」と呼ばれるようになった。その後、五代目定治が、北条早雲に招かれ小田原に移り、江戸時代には「ういろう」は、小田原の名物として世人の広く知るところとなり、1718年に二代目市川団十郎が歌舞伎の「外郎売り」を演じ歌舞伎十八番の一つとなっている。また、「外郎餅」として、蕨粉と小豆あんを主原料とした蒸し菓子があり、室町時代に周防山口の秋津治郎作が製法を考えたとされる。

植村義次(うえむらよしつぐ)
京都市中京区丸太町通鳥丸西入ル。明暦3年(1657)創業。初代近江屋善兵衛が、御所の斜め向かいに店を構え、今に至る。京都で唯一残る「洲濱」を専門に扱う店。数百年前から、葵祭りの際には下鴨神社の御神饌として植村義次製の洲濱が供えられ続けているという。棹物の「洲濱」と「春日の豆」「押物」の三品のみを作る。「春日の豆」は洲浜生地をあっさりひねりお多福をかたどり、丸太通の古名春日小路に因んで名付けられた。当代十四代目の考案した「押物」は、白い正方形の落雁に洲浜生地で四季折々の模様を配した干菓子で要予約。地方発送なし。
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鶯餅(うぐいすもち)
餅菓子の一。餅または求肥の皮で餡を包んで両端をつまみ、黄粉をまぶした菓子。山東京山の弘化3年(1846)『蜘蛛の糸巻』に「鶯餅、一名を仕切場と唱へ、茶席にも用ひ、通人の称美したものなるに、今や駄菓子や物となりて、おつかァ四文くんねへのいやしき小児のものとなりぬ。」とあり、幕末にはこの菓子が大衆化していたことがわかる。奈良大和郡山の菊屋では、天正年間に郡山城城主大和大納言秀長が関白秀吉を城中に招き茶会を催した折、御菓子司であった初代菊屋治兵衛が作った粒餡を餅で包み黄粉をまぶした餅菓子を秀吉が気に入り鶯餅の名を賜り名物鶯餅として売出し、のち店が郡山城大手門の入口あるため人呼んで城之口餅と名が変わったと伝え、鶯餅の原型と唱える。

黄精飴(おうせいあめ)
長澤屋の銘菓。甘野老(アマドコロ)の根茎の煎汁に餅米と水飴と砂糖を混ぜて造った求肥飴に片栗粉をまぶした菓子。寛永12年(1635)朝鮮通信使をめぐる国書改竄の罪で南部藩に御預になった対馬藩の方長老(ほうちょうろう)が黄精と同属別種のアマドコロを見つけ製法を伝えたとされる。黄精は、中国雲南省に自生するユリ科アマドコロ属のカギクルマバナルコユリの根茎ことだが、外観が似て薬効も変わらないユリ科アマドコロ属の鳴子百合ナルコユリ)が一般的に黄精として栽培加工される。甘野老は玉竹(ぎょくちく)、萎蕤(いずい)といい、貝原益軒の宝永6年(1709)刊『大和本草』に「黄精と萎蕤と相似たり黄精は茎青し萎蕤は茎紫なり、萎蕤根は蘆値相似たり薬肆に生姜手の黄精と称するは是真の黄精也、地黄手の黄精と称するは萎蕤也。黄精萎蕤の葉有両々相対者不相対者相対するはまれなり。」とあり、形態も薬効も似て黄精とも呼ばれているという。菅江真澄の『いはてのやま』の天明8年(1788)8月の盛岡「廿九日 つとめて出たつ。もはらこゝのつちけとて、夏引の糸あまたくり返しもて、つむぎ、しまをりをし、黄精を蒸してぞ沽る宿の、軒をつらぬれたれど、偏精やいと多く、正精や、まれならんかし。この市中にながれたる中津河を橋よりわたれば、鹿角郡へわかれたる巷ありて、西にわかれては猶黄精をぞうるめる。黄精膏もあり、つとにせよなどよばふ。」(29日 早朝に出発した。もっぱらこの地の産物として、夏蚕の糸をたくさんとってつむぎやしま織をし、あまところを蒸してあきなう店が軒をつらねていたけれども、偏精が多く、正精はまれであろう。この市中を流れる中津川の橋をわたると鹿角郡へわかれる辻道があって、西にわかれる道をゆくと、やはり黄精を売っている。黄精膏もあり、みやげにもどうぞと呼びかけている。)(現代語訳東洋文庫)とある。正精と偏精は、唐の孟顯の『食療本草』に「根葉花實皆可食之。但相對者是、不對者名偏精。」、朝鮮の許浚の光海君5年(1613)刊『東醫寶鑑』に「其葉相對爲黄精不對爲偏精功用劣」、平賀源内の宝暦13年(1763)刊『物類品隲』に「黄精に偏精正精の別あり、本邦に所産のものは皆偏精にして正精はなし、偏精所在に多し、南部産上品茎葉甚大なり、その正精は享保中漢種を伝て今官園にあり、根葉和産と畧相似たり、葉薄両々相対して出ず、是正精にして偏精に比すれば功用勝れりとす、惜らくは世上至て希なり」とあり、葉が対生するものを正精、対生していないのが偏精としており、葉が対生するカギクルマバナルコユリが正精、偏精はナルコユリやアマドコロなど葉の互生するものを指すと思われる。黄精膏は、唐の孫思貎の『備急千金要方』に「黄精膏方 黄精一石去鬚毛、洗令淨潔、打碎蒸、令好熟、押得汁、復煎去上遊水、得一斗内乾薑末三兩、桂心末一兩微火煎之、看色鬱鬱然欲黄、便去火待冷」とあるが、東洋文庫訳註に「黄精膏は、盛岡地方でむかしからアマドコロの根茎をとろ火で長く煮て、それに黒砂糖を加え、器物にわけて売ったがそれを指すと思われる。」とあり、製法は異なり、いわゆる薬菓子として売られていたようである。黄精飴は、嘉永6年(1853)創業の長澤屋初代が工夫したものとされ、黄精膏とのかかわりを示す史料は未詳。

粔籹(おこし)
糯米や粟を蒸し、乾かし、炒ったものを、水飴や砂糖の蜜を加熱して掛けて混ぜ、湿らせた木枠に入れて薄く延ばし、切り分けて冷まして板状に固めた菓子。胡麻・落花生・大豆などを混ぜたものもある。興米(おこしごめ)ともいう。中国漢代の『楚辭』招魂に「粔籹蜜餌、有粻〓(食皇)些」、王逸注に「以蜜和米麺煎熬作粔籹」、北魏の『斉民要術』に「膏環、一名粔籹、用秫稻米屑水蜜溲之、強澤如湯餅麺、手搦團、可長八寸許、屈令兩頭相就、膏油煮之。」とあり、平安時代に唐からもたらされた唐菓子で、源順の承平4年(934)頃の『和名類聚抄』に「文選注云、粔籹、巨女二音、和名於古之古女、以蜜和米煎作也」、『色葉字類抄』に「羹續 オコシコメ、靱胱同、興米同、俗用之」とあり、黒川道祐(〜1691)の『雍州府志』に「興米(おこし) 室町四条南松木町所有為宜、近世二口屋、并虎屋之製亦佳、其製法熬米以滑飴粘固之、或長或円造之、是自粘固之中挽興之謂也」、喜田川守貞の嘉永6年(1853)頃の『守貞漫稿』に「粔籹 おこしめ、古来より有之、和名抄に粔籹以蜜和米、或曰粔籹は餅米を煎て水飴にてこねかため、竹筒等に搗籠押出し製す云々、今世は糯米を蒸して日に晒し、干いゝとなして後、水飴と砂糖を以て煉之、筥に納れさまし、拍子木の形に截る、今俗右のほしいゝのまゝなるを田舎おこしと云也、江戸にての名也、江戸には此製多し、又大坂道頓堀二つ井戸辺に、津の国清兵衛と云ふ者、享和文化比より売之、始めは小行なりしが、今は近国西国に其名高く繁昌して今に存す、当家の製は、粳を蒸して干飯となし、これをひきて小米糒となし、飴と琉球黒砂糖の上品を撰み、又出島糖を加へ製す、故に堅きこと石の如し、号けて岩於古志と云ふ、太さ方五六分許、長四寸許、一価四文也、近年京坂の??皆必ず是を模製するなり、江戸にも近年模製して売る店あれども行はれず」とある。千利休の芝山監物宛消息に「例の如く御もちおこしごめ好物、炭一荷、色々御心ざし辱く候」、『津田宗及茶湯日記』天正六年三月四日条に「菓子おこしごめ、かや、きんとん」と見える。

御萩(おはぎ)
餅米、または粳米と餅米を混ぜて炊き、軽く搗いて小さく丸め、小豆餡・黄粉・擂胡麻などをまぶしたもの。『物類称呼』に「牡丹餅ぼたもち 又はぎのはな又おはぎといふは女の詞なり、関西および加州にてかひもちと云、豊州にてはぎ餅と云、羽州秋田にてなべすり餅と云、下野及越前越後にて餅のめしと云、下総にてがうはんと云、今按に、ぼた餅とは、牡丹に似たるの名にして、中略なりとぞ、萩のはなは、其制煮たる小豆を、粒のまヽ散しかけたるものなれば、萩のはなの咲みだれたる如しと也、よつて名とす」とあり、牡丹餅の小豆の粒が萩の花の咲き乱れるさまに似ていることから「萩の餅」と呼ばれるようになり「お萩」となったが、いずれも女房詞とする。萩の花の季節に合わせ、春から初夏にかけて作るものを「ぼたもち」、秋に作るものを「おはぎ」、また餡をつけたものを「ぼたもち」、黄粉をまぶしたものを「おはぎ」、さらに漉餡を使ったものを「ぼたもち」、粒餡を使ったものを「おはぎ」などとするところもある。

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