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コラム・ノート集
●これは私の雑感・ノート集です。
膨大な文献の存在によって中国関係は先人にほぼ議論し尽くされているのではと思われがちです。そして、新参の学生は究明の対象を見つけることに価値すら見いだせないという状況もあります。
しかし、
○中国語による解読と従来の漢文訓読による解読とのギャップの問題
○旧白話文法の構築
○清代の考証学者の未見の資料の出土による定説の再検討
○いい加減な標点本の横行
など、現状では寧ろ論題を多く抱えているはずです。
次の雑文が疑問喚起など何かのお役に立てばと公開します。
日記・雑感は、ブログに書き込むようにしました。
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【目録】
「虚」について 市坪
心というものは、とらえがたく、また、説明しがたい。
なぜ、その人・民族が、そのような行動を起こしたのかは、歴史的考証によって原因の一端を探ることができる。
人間を突き動かす心は、幼児の頃からしつけられた反復、つまり、奨励された(生物学的な神経系統のはたらきである)条件反射や、自発的な模倣によって形成される。ある言語の環境で育てられると、暫くはその言語の範疇内での認識・判断しかできない。しかし、人間は、記憶容量が他の生物より上回っているので、学習という作業を通して色々なことを覚えていく。狼に育てられた人間は、狼以上の智恵をつけるのが難しい。
既習の条件反射を免れた、或いは、それを拒否した人々が生み出した芸術・文芸作品に、世間の旧習に慣らされた我々凡人は、感動するわけでもあるのだが、その条件反射が成り立つには、下地が白紙というか、無限大でなくてはなるまい。それは、人間の神経細胞の多さと関連がある。
さて、中国古典では、心を対象にした議論が多い。『荀子』天論に、
心居中虚,以治五官……。
心は中にあつて、耳・目・鼻・口・身をすべる……。 |
という。先に述べたとおり、心は五官を通しての経験を積み形成されるという側面も持っており、このもっともらしい定義は一面的である。それはさておいて、「中虚」という語を使用しているが、従来から「中虚」の訳がはっきりしない。注には、「中空虚之地」とあるが、心臓・肺などの臓器の形容なのか、『荀子』解蔽篇に定義される形而上的な意味を含んでいるのか判断に苦しむところである。
「虚」という言葉は、老荘思想で重視される語で、『老子』・『荘子』人生間・『管子』心術などで使われ。道の形容・無欲のさま・天や万物の始めの意味などそれぞれ、また異なっている。
時代が下って北宋になると、張載は、「虚」「太虚」を万物の本体であると取り上げて論じた。
これに影響され、儒学の方でも、「虚」という語を使用するようになる。朱子が「明徳」を「虚霊不昧」と説明しているのは、周知の通り。心の本体である明徳は、実体がなく虚であり霊妙な働きをし、私欲に覆われないとの意味である。また、
心雖是一物、卻虚、故能包含萬理。
心は一つの物であるが、実体がない。それだからこそ、万理を具備できる。 |
という。
陽明も『傳習録』267で、
良知之虚、便是天之太虚
良知の虚は、とりもなおさず天の太虚である。 |
と言い、朱子の学説を受けて説明する。『全書』卷六・答南元善でも、良知は太虚と同体であると述べたり、詩でも同語を用いているが、特に重要な概念として扱っているのではなく、宇宙の根源という意味で用いているに過ぎない。
「虚」という語を好んで使用したのは大塩平八郎であるが、またの機会に触れたい。
「明徳」という語についての覚え書き 5月31日 市坪
「明徳」という語を冠する法人を見かけるが、「明徳」とは一体どういう意味か定説がない。「明徳」は幾多の文献に見られるが、それを解釈する人の見解がさまざまだからである。
先ず、Book Shelfを見てみると、
| 聡明な徳。正しく公明な徳。また、「大学集注」の「明徳者、人之所得乎天、而虚霊不昧、以具衆理而応万事者也」から、天から受けたすぐれた徳性。 |
とある。
『大漢和』には、
| 聡明なコ。人の心にもつくもりのないあきらかな徳性。 |
とある。その他の辭書を見ても、多くは「明徳」を説明するのに「明」・「徳」の二字を使って説明している。また、「明らかなコ」というように、説明不十分な記載のある辞書もある。
ここでは、「コ」には触れず、「明」について考えたい。「明」は、「萌」の構成部分となっているように、見えないものが姿を現している状態・覆いがとれている状態・はっきりとしているさまを意味するものであり、「あきらか」という訓にこだわっていると意味を取り違えてしまう。
「明徳」を「聡明なコ」「くもりのないコ」とするのは、『大学』の本文にある、物の本末をわきまえれば、平天下まで順調に行くとする論から導き出される解釈であり、根本的には相違・距離はない。朱子のいう、「(天から受け継いだ)覆いのないすぐれた徳性」というのは、彼の性理論から導き出されたものである。
ところが、恩師である故赤塚忠氏は、新釈漢文体系・明治書院において次のように解説する。
○明徳 すべての ものごとを少しの誤りもなく認識する英明な材能。鄭玄は「至徳」、孔穎達は「己の光明の徳」と解し、また朱子は人の「本体の明」とし ている。『詩経』皇矣篇に周の先公の徳を讃(たた)えて、「帝、明徳に遷る」「その徳克く明かなり」とあり、その外『書経』『左氏伝』などに 明徳をいう例が少なくない。これによって明徳を「顕明な善徳」の意に解し、朱子の説を非難する学者が多い(例えば、伊藤仁斎『大学定本』、大田錦城『大学原解』、朝川善庵『大学原本釈義』)。
明徳が古語によるものであることは確かであり、またそれを人の本体とするのは朱子独自の哲学による解釈である。
それにしても、『荘子』斉物論篇に「明を以てするに若(し)くなし」とあり、『管子』心術上篇に「独なれば別ち明なり」とあり、『荀子』解蔽篇に「虚壱にして静かなる、これを大清明と謂ふ。万物形ありて見(あら)はれざることなく、見はれて倫あらざることなく、倫ありて位を失ふことなし」とあり、また『中庸』に「誠なるによりて明かなる、これを性と謂ふ」とある類は、明智が一時の哲学的問題であったことを示しているものであって、『大学』の明徳にもその反映があると見なければならず、単に善徳と解するのでは不十分である。 |
「明」を「明智」に関連づけ、それを「明徳」にまで関連づけようとしているが、氏が引用している各書が果たして本当に「明智」だけを主張したものなのか疑問がのこり、氏の独創的な解説は一学説に過ぎないものと判断せざるをえない。
「明徳」における「明」が、「明智」という意味によって限定的に説明されうるものか、単に褒貶という相対した意味においての褒義の「くもりのない」と説明されうるのか、問題のある箇所ではある。『大学』本文を素直に読むと、限定的・褒義の混然としたものとも考えられるが、日本語に訳そうとすると、どちらかを採らざるをえず難しい。
暴支膺懲ー言葉の観点からー 4月30日 田中
私は、高校の時、日本史・世界史・倫理社会・政治経済の授業を受けていたが、「暴支膺懲」という言葉を、聞いたことがなかった。
最近、朝日新聞の夕刊を読んでいたら、その語が出てきた。外出先の時だったのでメモをして、帰ってからさっそく家にある日本史や世界史の参考書、そして、百科事典でその語を捜そうとしたのだが、見つけられなかった。大学で社会科学や憲法などの課目を受講していたが、政治学関連の科目を受講していなかったのが悔やまれた。
この言葉は、中国侵略のスローガンとして使用されていたらしいが、インターネットを使って、中国・日本での「膺懲」の用例を検索してみると、中国では「膺懲暴支」、日本では「暴支膺懲」という語で、さまざまなページがあった。
まず、印象に残ったのは、「膺懲」つまり「ヨウチョウ」と発音される語が、当時スローガンの影響の下、子供でも知っていて相手をこらしめるという意味で使用されていたということだった。
ただ、「暴支」に関しては、「乱暴な支那」という解釈があった一方、「暴戻な行為をする支那」という解釈があった。「暴」の意味合いからすれば、後者が妥当である。
さて、「膺懲」は、字書を引くと、「討ち懲らしめる」という解釈が多い。しかし、薬を「服膺する」というように、普段使われる「膺」の字がなぜ「膺懲」という語の構成要素となるのであろうか。
「膺懲」という語は、『詩経』魯頌の、
戎狄是膺、荊舒是懲。
西北の蛮族を討ち、南の荊族・舒をこらしめる。
に基づく。
『大漢和』をみると、同じ上の文を引用して「あたる」・「うつ」という訓を載せている。どうして、こうなるのかというと、「あたる」は、『詩経』の傳、つまり、注に
「膺、當。」
とあるからであり、「うつ」は、『詩経』を引用した『孟子』滕文公・上の注に、
「膺、撃。」
とあるからである。
「あたる」と「うつ」に、どう繋がりがあるのだろう。これは、実のところ、文意によって訓をこしらえた、いわゆる「望文生義」であって、本来の意味からは遠いものなのである。このように、注によって文字の意味を突き止めていこうとすると無理がある。『大漢和』、そして、その他の様々な字書の限界の限界が、ここにある。そして、この『大漢和』の説明を見た初学者は、迷路に入り込んだも同様の情況に陥るだろう。
では、「膺」をどう解すればいいのだろうか。基本義は、「服膺」に見られるように、「うけいれる」であり、同音で意味が接近する「應」の語義を念頭に考えると、「うけてたつ」という派生義が後に生じたのであろう。『漢字源』では、「ひきうけて事にあたる」と解しており、「膺懲」を「敵をうけとめてこらしめる」と説明しているが、本来はそういう方向で考えられるべきものである。
ちなみに、『説文解字』段注をみてみると、
「膺、當也。」此引伸之義。凡、當事以膺、任事以肩。
「膺、當也。」というのは、派生義である。およそ、ことに当たるには胸、事を任ずるには肩を使う。
という。字の説明としては、不十分。
放心を求めるー顧炎武『日知録』から 3月28日 田中
『孟子』告子上に、
學問之道無他、求其放心而已矣。
学問の道(最終方向・目的)は、他でもない、失った本来の心を回復させることである。 |
とある。「放心」とは、小さな辞書に載っているような「ぼんやりしているさま」ではなく、ここでは
「気づかないうちに本来のさま(良心のある時のさま)を放擲・放失してしまった心」
とでも言えるものである。朱子は『史書集注』においてこの言について、何も詳細な説明を施すことなく、
と繰り返すだけである。
ところが、清代考証学の先駆者ともいわれる顧炎武は『日知録』卷七・「求其放心」(黄汝成・集釈本)において、『論語』の言を根拠に独自の説を展開する。以下が、それである。
學問之道無他求其放心而已矣。然則但求放心、可不必於學問乎。與孔子之言「吾嘗終日不食、終夜不寝、以思無u。不如學也」者何其不同邪。他日又曰、「君子以仁存心、以禮存心。」是所存者、非空虚之心也。夫仁與禮、未有不學問而能明者也。孟子之意、蓋曰、「能求放心、然後可以學問。」……
学問の道は、他でもなく、放失された心を回復するだけである、という。そうなら、ただ放失された心を回復すれば、学問は必要ないのだろうか。(『論語』衞靈30にある)孔子のいう「私は終日食べず終夜寝ずに思索していたが、無益であり、学ぶほうがよかった」というのと、何で食い違いがみられるのだろうか。他日、(孟子は離婁篇28で)「君子は、仁によって本来の心を保ち、禮によって本来の心を保つ」と言っている。ここで、保っているのは空虚な心ではない。そもそも、仁と禮は、学問によってはじめて明らかになるものである。(だから)孟子の言いたかったのは、放失された心を回復した後に、学問ができるというものであろう。……
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顧炎武は、孟子と孔子の思想を儒学という枠組みの中で同質性を持つものとして、孟子の言を孔子の言の内容に近づけようとしているが、無理があろう。
学問を先とするか、心の修練を先とするか。これは、各個人の資質・環境・体質に大いに影響されるものであって、一言説(孔子の言)によって他の全てをその枠組みの中にいれ標準とすることは、それこそ、各個人応じて指導しようとした孔子の意図に反するものともいえよう。
学問は、(環境を破壊することなどかまわずに)人類発展のためとすることは、結局人類を破滅に導く。また、現在において、学問は個人の修養のためにだけあると吹聴することは、他の人から見れば爆笑ものかもしれない。
孔子のいた古代中国から現在に至るまで、学問は処世・職務執行上の智恵を提供するものという性格の一面をもっている。が、しかし、その定められた規範をどうみるかは各個人異なっているわけで、実直に反省をするか否かで人格向上の到達度合いが異なってくる。こういうことも考えて研究はされなければならない。
人の感情と天候について 2月27日 田中
人は怒るとどうなるか。日本では、一般にそれを「あつくなる」とも称する。それは、外見から判断され、そう解されるのであろう。では、中国ではどうなのだろうか。
実は正反対に、「怒り」は陰に属し、それゆえ寒暖の尺度でいえば「寒」に属するものといわれる。
『春秋繁露』王道通三に、
「怒則爲寒氣。」
『淮南子』原道訓に、
「人大怒破陰、大喜墜陽。」
注には、
「怒者、陰氣也。陰爲堅冰。」
とあり、
『傷寒論』傷寒例第三に、
「是以彼春之暖、爲夏之暑。彼秋之忿、爲冬之怒。」
とも見える。
ただ、そのような説は虚妄なものだと退ける人もいた。人の感情と天候の變化の相關性についての言説は、天人相關説の流行により漢代において盛んになったが、王充『論衡』寒温に、このような説は、儒者のいい加減な推測だ(「妄處」)と批判している。
緯書をパラパラとめくって何か類似する表現がないかと探したが、『河図』稽命徴に、
君急恚怒、無雲而雨。
君主がせかせかとし怒っていると、雲もないのに雨が降る。(「恚怒」は、一本「蛙怒」とも作られ、「カエルが怒り」とも解しうる。)
とあった。
天人相關説は、漢以降もあったが、天の急変がないのは現王朝を天が支持しているという都合のよい解釈のもと、受け継がれることともなったのである。
『中庸』冒頭の把握ー朱子・王陽明のそれぞれの解釈ー
はじめて読むと、難解というより、文字通り読んでいて何でこういう表現が成り立つのか面食らう『中庸』冒頭について、以下確認していきます。『中庸』という篇自体、各論の寄せ集めとも論じられていますが、冒頭には、
とあります。
漢代の古い解釈(鄭玄の注)によって訳すと、
天が命じて、このようにあらせる本来のありさまを性といい、その性のままに行動することを道といい、この道を身につけ広めようとするのを教という。
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となります。原文は短い文ですが、意図する内容をくみ取り訳すとこうなります。
しかし、これについて、朱子は次のように解説します。
命、猶令也。性、即理也。天以陰陽五行化生萬物、氣以成形、而理亦賦焉、猶命令也。於是人物之生、因各得其所賦之理、以爲健順五常之コ、所謂性也。率、循也。道、猶路也。人物各循其性之自然、則其日用事物之間、莫不各有當行之路、是則所謂道也。脩、品節之也。性道雖同、而氣稟或異、故不能無過不及之差、聖人因人物之所當行者而品節之、以爲法於天下、則謂之教、若禮・樂・刑・政之屬是也。蓋人之所以爲人、道之所以爲道、聖人之所以爲教、原其所自、無一不本於天而備於我。學者知之、則其於學知所用力而自不能已矣。故子思於此首發明之、讀者所宜深體而默識也。
命とは、命令するというようもののである。性とは、理のことである。天は陰陽五行によって萬物を生じさせ、氣(材質)によって形を作り、理もまたあたえるのだが、これは(天がそうあるように)命令したようなものである。こうして、人が生じると、それぞれあたえられた理が備わっており、健順五常のコを行うこととなるが、これがいわゆる性なのである。率とは、したがうの意味。道とは、行路の意味。人は、それぞれ、そのままの性にしたがえば、日常の行動は、すべてそのようにするべきであるという行路があることになるが、これがいわゆる道なのである。脩とは、順序づけること。性や道は(萬人にとって)同じとはいっても、生まれる時にもらった氣(材質)が違うので、その行いに過不足があることとなり、聖人は人がそうするべきであるという事柄について順序だて、天下の模範としたが、それが、教というものなのであり、(具體的には)禮・樂・刑・政などという種別が、それにあたる。人が人としてあり、道が道としてあり、聖人が教えを作成した、(それぞれの)理由は、根本から考えてみると、すべて天に由來したものであり、(それゆえ)各自の人に具備されているはずなのである。學ぼうとする者が、これについて理解していれば、學ぶという事柄について、積極的になすべきものが分かり、おのずから(學ぶことの)終わりはありえないことになろう。子思(この『中庸』の作者ー朱子はそう信じるー)は、この冒頭でこのことについて掘り下げ明らかにしたのだが、これを讀む者は、(この趣旨を)深く身にきざんで、(とやかく議論するのではなく)心に銘じておかねばならない。
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朱子は性を理(世界の根本原理)と定義し、その定義に沿ってこの冒頭を読み解こうとし、このような読み解き方が儒学を身につける方法とします。人は、理をあたえられた存在であるが、あくまでも未完成なので、理の具体例である禮・樂・刑・政を学ばなければならないとするのです。ここに、朱子の学究的な態度を見ることができるが、朱子とても実行をなおざりにした学究を勧めているわけではありません。
では、王陽明の『中庸』の冒頭に関する言説を次に見てみましょう。
率性之謂道、誠者也。修道之謂教、誠之者也。故曰、自誠明、謂之性、自明誠謂之教。
中庸爲誠之者而作、修道之事也。
道也者性也。不可須臾離也。而過焉不及焉、離也。是故君子有修道之功。戒慎乎其所不睹、恐懼乎其所不聞、微之顯、誠之不可掩也。修道之功、若是其無閨A誠之也。
夫然後喜怒哀樂之未發謂之中、發而皆中節謂之和。道修而性復矣、致中和、則大本立而達道行、知天地之化育矣。非至誠盡性、其孰能與於此哉。是修道之極功也。而世之言修道者離矣。故特著其説。
「從性」を道というとは、誠である状態から言ったものである。「修道」を教えというとは、誠であろうと努める状態から言ったものである。だから、誠であることによって良知が明らかであるのを性といい、明らかであることによって誠であろうと務めるのを教えというと言うのである。
『中庸』という書物は誠であろうと努める人のために作られたのであって、(したがって)「修道」の事柄(に屬する)ものなのである。
道というものは(名前は違うが、本來)性と同じであって少しの間も離れてはならないものである。行き過ぎたり及ばなかったりすることは、離れることになる。だから、君子には「修道」の努力方法があるのである。見えない所・聞こえない所、(つまり心の本体に)よくよく気を配るならば、かすかなものがはっきりと明らかとなってゆくように、誠は覆い隠すことができなくなるほどになるのである。「修道」の努力をこのように絶え間なくするのが、誠であろうと務めることである。
さて、このようにして後、喜怒哀樂の情がまだ発動しないのを中といい、発動してみな節度にかなっているのを和という状態になる。道が修められれば、性は回復される。(この)中和を極めれば、天下のおおもと・道徳がしっかりと行き渡ることとなり、天地の万物育成について関知できるようになるのである。(しかし、それは、)完全な誠である状態で性に從おうとする聖人でなければ関知できない。これが道を修めた後の優れた功果である。しかし、世間で「修道」をいう者は支離に陥り道から外れている。だから敢えて私はこのように記すのである。
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陽明は、おおむね朱子の言説にしたがっているのだが、以上のように学究のみにかかずらわって本性の涵養に無頓着なものを批判しているのです。
○以下に、鄭注そして戴震注を記す。
天命之謂性、率性之謂道、修道之謂教。
【鄭注】 天命、謂天所命生人者也。是謂性命。木神則仁、金神則義、火神則禮、水神則信、土神則知。孝經説曰、「性者、生之質、命、人所禀受度也。」率、循也。循性行之之謂道。修、治也。治而廣之、人放倣之、是曰教。
【補注】 生而限於天、是曰天命。凡分形氣於父母、即爲分於陰陽五行。人與百物各以類滋生、皆氣化之自然。大戴禮記曰、「分於道謂之命、形於一謂之性。」分於道者、分於陰陽五行也。性之大別、各以氣類、而同類之中、又復不齊、故曰、「天命之謂性。」有生以後、則有相生養之道、亦如氣化之不可已。經傳中或言天道、或言人道。天道、氣化流行、生生不息是也。人道、以生以養、行之乎君臣、父子、夫婦、昆弟、朋友之交是也。凡人倫日用、無非血氣心知之自然、故曰、「率性之謂道。」然心知有明闇、當其明則所行不失、當其闇則有差謬之失。修者、察其得失而使一於善、非於道之外別爲法制也。故曰、「修道之謂教。」篇内又以修身、修道連言。身之實事是爲道、道不可不修、明矣。
敬・愛について 12月31日 田中
熟語として「敬愛」という語がある。「敬」とは、うやまうこと。「愛」とは、いつくしむこと・いとおしく思うこと。「敬」と「愛」とは、一見して並び立たない態度・感情とも思えるが、そうではなく、「敬」と「愛」とは儒学において重要な概念の一つである。何気なく使われる語であるが、その用例は古く『荀子』君道に、
請問為人子。曰、敬愛而致文。
子としてあるべき道をお聞かせ下さい。親を敬愛して恭順の態度で臨むべきである。(訳は、王先謙『荀子集解』による) |
とある。
ところが、『論語』學而に、
子曰、「道千乘之國、敬事而信、節用而愛人、使民以時。」
先生はおっしゃられた。「千乘の國を治めるには、実務に専念して民から信頼を得、節約を心掛け民をいつくしみ農閑期に民を使役することだ。」と。(訳は、朱子集注による。以下同。) |
とある。朱子は、「敬」を「心をそこに集中させる」意味とするが、何晏集解という古い注では、「敬」を「敬慎」と解しており、解釈がずれている。それは、ともかくとして、ここでは「敬」と「愛」との対象の種類が異なっている。
他の文献を見ると、「敬」と「愛」との対象の多くは人物である。例えば、よく知られた『孟子』の段には
人之所不學而能者、其良能也。所不慮而知者、其良知也。孩提之童、無不知愛其親也。及其長也、無不知敬其兄也。親親、仁也。敬長、義也。(盡心上15)
人として学ばずにできるのが、良能というものである。考えを巡らさずに分かるのが、良知というものである。二、三歳の子供でも親をいとおしく思うものである。成長すると、兄をうやまうこととなる。見内に親愛の情を抱くのは、仁である。年上をうやまうのは、義である。 |
とある。
また、
食而弗愛、豕交之也。愛而不敬、獸畜之也。(盡心上・37)
食を与えても、いつくしまないのは、豚として扱うものだ。いつくしんでも、うやまないのは、犬や馬を養うようなものだ。 |
ともいう。これは、『孟子』によく見られる比喩手法であって、比喩によって強烈に概念の大切さを浮かび上がらせるものであり、「敬」という態度・情念の大切さを説いている。
孟子は、墨子の兼愛説を、父をないがしろにするものとして批判する。つまり、親に対しては、親愛の情だけではうまくいかず、もとから備わる「敬」の態度・情念も発揮させないとならないとするのである。
「敬」と「愛」とには、このように親に対する孝、賢者に対する礼に関連づけられる語義背景がある。今月、内親王の命名に際して、出典を『孟子』としたとの告示を目にしたが、含蓄のある語である。
【資料】
○ 夫孝者、善繼人之志、善述人之事者也。春秋、脩其祖廟、陳其宗器、設其裳衣、薦其時食。
宗廟之禮、所以序昭穆也。序爵、所以辨貴賤也。序事、所以辨賢也。旅酬下爲上、所以逮賤也。燕毛所以序齒也。
踐其位、行其禮、奏其樂、敬其所尊、愛其所親、事死如事生、事亡如事存、孝之至也。
郊社之禮、所以事上帝也。宗廟之禮、所以祀乎其先也。明乎郊社之禮、酪ヲ之義、治國其如示諸掌乎。」(『中庸』19)
○孟子曰、「愛人不親、反其仁。治人不治、反其智。禮人不答、反其敬。行有不得者、皆反求諸己。其身正、而天下歸之。詩云、『永言配命、自求多福。』」(『孟子』離婁上・4)
○孟子曰、「君子所以異於人者、以其存心也。君子以仁存心、以禮存心。仁者愛人、有禮者敬人。愛人者、人恆愛之。敬人者、人恆敬之。
有人於此、其待我以横逆、則君子必自反也。『我必不仁也、必無禮也。此物奚宜至哉。』其自反而仁矣。自反而有禮矣。其横逆由是也、君子必自反也。『我必不忠。』自反而忠矣、其横逆由是也、君子曰、『此亦妄人也已矣。如此則與禽獸奚擇哉。於禽獸又何難焉。』
是故、君子有終身之憂、無一朝之患也。乃若所憂則有之。舜人也。我亦人也、舜爲法於天下、可傳於後世。我由未免爲郷人也。是則可憂也。憂之如何。如舜而已矣。若夫君子所患、則亡矣。非仁無爲也、非禮無行也。如有一朝之患。則君子不患矣。」(『孟子』離婁下・28)
「催」「摧」という文字について 10月29日 田中
『王陽明出身靖亂録』というものがある。明代の小説ながら逸書であるため和刻本でしか見ることができず、まだ中国本土でも研究途上にあるのを現在翻訳しているが、その中に
一霎時轉眼故人稀。
漸漸的朱顔易改。
看看的白髪來催。
という出自不明で「梧葉兒」という名の「詞」がある。訳すのに困ったのが「白髪來催」いう部分で、「催」をどういう意味で反映させるか、この調査で数日かかった。
「看看的」は、「みるみるうちに・今にも」の意味であるのは、調べが簡単につくが、「催」には、「せきたてる」という語義しか浮かばなく、『大漢和』を調べてみると、「せまる」とい意味が記されていた。それを採ると
白髪がもう身にせまる
と訳せそうだが、以前、記憶していた賀知章の「回郷偶書」という詩が、ふと頭をよぎった。それは、平易な言葉を駆使した詩ながら意味深長で心に残る詩の一つであり、北京語で覚えていたのだが、その詩は、次のとおり。
少小離郷老大同
郷音無改鬢毛衰
兒童相見不相識
笑問客従何處來
訳文として、筑摩書房『唐詩選』p40にある今鷹真訳を次に載せよう。
若いときから故郷を離れ 年老いて帰ってきた
国なまりは 一向変らぬが 私の鬢の毛はうっすら
子供と顔をあわせても お互いに初めて
笑いながらたずねる お客様は どちらからおいでで
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二句の「郷音無改鬢毛衰」にある、「改」と「衰」が、「梧葉兒」という名の「詞」と何か関連があるというので頭に浮かんだのだろう。ただ、私は、「衰」音:shuai1ではなく「催」音:cui1で記憶していた。
そこで手元にある内田泉之助『新選唐詩鑑賞』明治書院p78を繰ってみると、「鬢毛衰」ではなく、「鬢毛催」と記し、語釈「鬢毛催」に、
| 髮に白毛がきざすこと。白髪まじりになる。「催」一本に「摧」に作る。 |
とあり、通釈に、
| 若い時に家を出たまま幾年か他國に暮して、年寄ってから歸って來た。國なまりは更に改まらず、もとのままだが、髪はもう白毛交りになってしまった。そのためか、わが家の子供等は自分を見ても見覺えがなく、にこにこしながら、「お客さんはどこからいらっしゃいましたか」と尋ねた。 |
とある。
更に追求心はやまず、かつての一般学習者向けの金谷治監修とある三省堂『漢詩』明解古典学習シリーズ19の、語釈「鬢毛衰」を見ると、
| 髪の毛がうすくなる。「衰」は「摧」に作る本もある。意味は同じ。「催」に作る本もある。「催」は、うながすの意。早くも白いものがまじってするという気持ち。 |
とあり、尾上兼英監修とある旺文社『漢詩』古典解釈シリーズの、語句「摧」の注には、
| 「くだク」と読む。ばらばらになる意から、ここでは髪の毛が薄くなること。「衰」に作るテキストもある。 |
とあるのを見つけた。強引だなという感想を抱きつつ、中国で出版された三民書局『唐詩三百首』p353を見てみると、「衰」を
斑白。
と解していた。
また、『唐詩鑑賞辞典』上海辞書出版社p52では、「衰」を
疏落。
と解していた。
確認のため、『大漢和』を調べると、「摧」には、
ほろびる
という意味が載っているものの、「まだらになる」というような語例・語解もなかった。
こうなると、「衰」「催」「摧」をなぜ、「白髪」とか「まだらになる」と解したのかは、文脈から語義を推定した望文生訓の類と言わざるをえない。
因みに、藤堂明保編・『学研漢和大辞典』の「催」の解字欄には、「催」「摧」「砕」は同系のことばで、
| 細かくせかせかと小刻みに動くの意を含み、転じてせきたてるの意となり、気がせいて待ち受けるの意となる。 |
とある。『学研漢字源』も全く同じ。
後に、碇豊長氏から
「衰」はcui1と読むと「髪の毛や落ち葉等が一本又一本と少しずつ減っていくことを意味する。」
という指摘を受けて、「衰」について調べると、『大漢和』には「へる」という訓を載せていたが、用例が載っていない。『廣韻』韻上平・二十一には、
小也。減也。殺也。楚危切。
とみえる。そこで、『古漢語常用字字典』北京商務印書館を繰ると、『戦国策』趙策四にある、
日食飲得無衰乎。
いつも飲食が減っていないか。
というものを載せていた。とすると、「催」「摧」は、「衰」の音通として解することもできる。
さて、話を「白髪來催」にもどすと、文字通りに
白髪がせまる。
と訳せそうだ。また、「催」を「衰」の音通として強引に
白髪になり髪もうすくなる
とも訳すこともできるが、無難な前者を採ることとした。
今鷹先生には、大学院の折、『論語注疏』の北京語音読・日本語訳出の演習授業でお世話になった。今鷹先生が、
私の鬢の毛はうっすら
と訳したことについて直接質問したい気もするものの、退官され近くの私大で教鞭をとっていらっしゃって、専攻が異なる私が確たる反証を持たずに、何十年も前の訳であれこれ質問したら、逆に眼鏡を片手にジロッとおにらみになって、
「あなたなら、どう訳しますかね。」
と質問なさるのがおちなので実行には移せなかった。
●あとがき
碇豊長氏から、メールの指摘をいただいて「衰」についての一考を追加しました。
左と右について 9月29日 田中
中国の官名には、左右の呼称のついたものがある。例えば、明代で、皇帝の耳目となって行政監督をする中央の役所である都察院の長官は都御史と呼ばれるが、その都御史には左都御史と右都御史とがいる。次官もそうであり、ほとんど官名に左右の別がある。では、どちらが上なのか。
現在、出土された老荘関連の本の研究が進められているが、従来の『老子』三十一章に、
君子居則貴左、用兵則貴右 。
君子は、平素左を上とするが、戦いの場合には右を上とする。
とある。なぜ左が上なのか、これは議論の生ずるところであるが、朱謙之『老子校釈』では、左傳桓公八年に
楚人尚左。
とあるのを引き、証左とする。楚の風習によるものであるからということであろう。日本の官名・明代の官名も、この左を上とするという考えに従っている。
しかし、「左遷」という言葉もある。これは、『漢書』周昌伝に見える語であるが、顔師古の注には、
是時尊右而卑左、故謂貶秩任爲左遷。
という。つまり、時代によって依拠する考えが異なるという事であろう。
microsoft bookshelfの「左遷」の項では、括弧付きで、
昔、中国で、右を尊び左を卑しんだところから
と説明されているが、やや不親切な感を否めない。
因みに、左翼・右翼と呼ばれる主義者の別は、中国とは、全く関係のなく、フランス革命当時、急進派ジャコバン党が議長席から見て左の席にいたことによる。
人間は、右脳・左脳による機能の違いという発生的な要因を引きずり、また、習慣にも左右され右利きが多く右を上と見なす傾向がある。ヨーロッパ語の右が「正しさ・正義」を多く意味するのもここから来ているのであろうが、古典解釈には厄介なものである。
【参考文献】英米故事伝説辞典p530。
間違えやすい「暴」という漢字について 8月26日 田中
四字熟語として、「自暴自棄」というものがあり、現在では「やけくそになる」という意味で使用される。しかし、その語の出典である『孟子』では、そのような意味では用いられていない。
自暴者不可與有言也。自棄者不可與有爲也。言非禮義、謂之自暴也。吾身不能居仁由義、謂之自棄也。(離婁上・10)
自暴者と一緒に話し合うことなどできず、自棄者と一緒に行動することなどできない。礼義に沿わない言を発するのを自暴と言い、仁に基づき義によって行えないのを自棄と言う。(訳は朱注に拠らない逐語訳)
と、あって『孟子注疏』の疏では、「言非禮義」以下を、
孟子自解自暴自棄之言也。
と、孟子独自の解釈と説明している。つまり、「自暴」・「自棄」というものは、孟子の造語で、それぞれが「礼義に沿わない言を発する」・「仁に基づき義によって行えない」と定義づけられているのである。
およそ漢字の「自」という語は特殊な語で、「自信(自らを信ず)」のように「自分を」という目的語として用いられた場合でも「自」という語は動作を示す語の下につかず上に位置する。
前置きが長くなった。さて、「自暴自棄」の「自棄」は、「自らを棄つ」と訓ずることができるのだが、「自暴」とは、何と訓ずるのであろうか。これは、勉強する側・教える側にとって厄介な問題の一つである。
先ず、第一に、「暴」には「あばれる」という訓が本来なかったことを理解し、「あばれる」は当用音訓であって、本来の漢字の意味とは直接つながらないものであり、伝統的な訓読では「そこなふ」と訓じていたことを記憶しておかねばならない。そして、「暴」の基本義は「手荒なさま・手荒なことをする」であり、「あらし」・「つよし」・「しひたぐ」・「そこなふ」・「にはか」などと訓じられる意味が派生したことも。
因みに、朱子は『四書集解』において、
暴、猶害也。……自害其身者、不知禮義之爲美而非毀之。雖與之言、必不見信也。
という。そこで、『大漢和』をながめると、「暴害」という熟語が例文つきで載っており、「亂暴して危害を加へる」と説明している。
最後に、「孝行」の「孝」のように名前の「たかし」以外に決まった訓がないのも困りものだが、今回取り扱った「暴」の他、「字」に対し地名の「あざ」として国訓が定着している場合もあり、中国の原典に当たる際には、更に注意が必要だ。
古典翻訳について
朝日新聞7.21夕刊(愛知県12版・p9)において翻訳家・山岡洋一氏の「学者任せやめプロの訳を」という意見が掲載されていた。
要旨は、名作・名著とされる古典が読みづらいものが多いのは翻訳に問題があり、学者が研究のため訳したスタイルが残っているからであって、つまりは、原書を研究する際の参考資料として翻訳しており、原著者が日本語で書くとすればどうするかと言う一般読者への配慮をしていないからであるというものである。
これは、非常に厳しい指摘であるが、翻訳の限界について改めて考えてみたい。例えば英語詩でのリフレインや脚韻(street・eat・heatなど末尾音の重複)によって醸し出される雰囲気・音楽感を日本語で伝えるのは不可能であり、これを味わうには原文に直接当たるしかない。これは、漢詩でも同じである。つまり、何らかの意図表出を狙った原文は、翻訳の注釈によって支えられなければならないことが多いのである。
平家物語の原文が分かりづらいから英訳を読んだからといって、平家物語の全貌を把握したと言えないのはほぼ明白である。翻訳は、原著への一つの手軽な道しるべにすぎないのである。
そして、注釈が施される理由は、ある一語に対してこれまでどのように解されていて、自分はどれを採るかという、翻訳の方向の意思表示の場でもありうる。一般の読者は、原著把握のためにこんな面倒な手続きを嫌う傾向があり、また、それは、当然でもあるが、この意識の乖離にこそ学究的な翻訳の性格と一般向けの翻訳の性格という埋めがたい溝がある。
中国の古典の一つとされる傳習録も、岩波文庫にあるものでは、訓読とわずかな注しかなかった。これしか無かった当時、訓読に不案内な初心者にとっては正に画期的なものであったが、今では単なる資料的な価値しか持ちえなくなっている。
私事にわたるが、中国の古典には、文字の誤植が多く、現在私が訳している明代の小説自体に誤植があるし、更にその小説を書いた著者がもととした(今見ることができる)原典にも誤植があるという始末で、周辺資料の調査・確認が必要である。学究的な余技と自分が関心持った対象へのあくなき追求心がなくては翻訳はつとまらないこともある。だから、翻訳家が原稿料をもらって、それで生活できるようなレベルの訳ではあやういものともなりうるこもある。
山岡氏の主張の一つには、一般の読者が煙に巻かれるような注釈を付けるなというものがある。注釈を書く人は分かりやすく書こうとする意識をこれまで以上に喚起されるべきではある。かといって、翻訳自体は、異文化の地で育まれたものを、半ば無理やり自国のものへと同化させるものとも言えるようなもので、その意味で一般の読者が抱く過大な期待(ー例えばこの一冊を読めばこの古典の全てが分かるというような期待ー)は、却って古典の価値を損なおうとするものであるとまでは言わないが、翻訳自体の限界という視点からみると、改められてしかるべきものとも言いうる。
陽明の四句教と性善説 6月30日 田中
陽明は、諸子の中で『孟子』の言をよく引用するが、性善説に関しては、『孟子』において性は本来的に善に向かうものと説かれたのであり、『荀子』において人の遺した流弊に即して性は悪と説かれたものと解している。次に挙げる言説がそれである。
性に一定の形がないので、その論にも一定の形がないのである。本體から説き起こす者もいれば、働いた後の樣から説き起こす者もおり、本源から説き起こす者もおり、流弊から説き起こす者もいるが、總括して言うならどれも同じ性なのである。ただ見方に淺深があるだけである。もし一方にのみ拘るとよくない。性の本來的な樣はもともと無善無惡である。働いた後の樣ではもとより善にもなり惡にもなりうる。その流弊はもとより必ず善惡がはっきりする。……孟子の性の説き方は直接本源から説き起こしたものであって、またおおよそこのように善的なものだと説いたまでである。荀子の性惡は、流弊から説いたもので必ずしもよくないとは言えず、見解が不徹底なだけである。
性無定體、論亦無定體。有自本體上説者、有自發用上説者、有自源頭上説者、有自流蔽處説者、總而言之、只是一箇性。但所見有淺深爾。若執定一邊、便不是了。性之本體、原是無善無惡的。發用上、也原是可以爲善、可以爲不善的。其流蔽、也原是一定善、一定惡的。……孟子説性、直從源頭上説來、亦是説箇大概如此。荀子性惡之説、是從流蔽上説來、也未可盡説他不是、只是見得未精耳。(傳308) |
実際、『孟子』において修養努力の必要が記されるように、『孟子』では、人の性は善だから何もしなくてよいなどという文脈はなく、性、すなわち、善に向かう本来的な状態に立ち戻るには自発的な努力ー不動心の体得・寡欲ーが重要視されている。
さて、陽明の教えとして
善もなく惡もないのが心の本體であり、善があり惡があるのが意そのものの動きであり、善を知り惡を知るのが良知であり善をなし惡を去るのが格物である。
無善無惡是心之體、有善有惡是意之動。知善知惡是良知、爲善去惡是格物。(傳315) |
というものがあり、これが現在でも問題對象となっている四句教である。心の本體とは陽明にとっては、性・理・天理・誠・知・良知・至善とも表現されるものであり同一のものとされた。その心の本體は事物・事柄を現出させる以前のものであるから、善か惡かも規定しえないものであるわけである。そして、善惡を判斷する根本的基準である点からいっても、善惡いずれの名稱をも與えられないはずのものでもありる。
心の本體から發せられる心馳せ・心の用いられた状態(「心之發動處」・「知之發動」同右)、すなわち「意」とよばれる、心が物事に応じて動いた時の状態になってこそ、善か悪かの判断が下されうるのである。常人は本體が私欲に覆われた状態で事をなそうとするので、「意」が偏り不善になってしまうわけである。そして、善を行い悪を去ろうという自発的な修養努力が、経書『大学』にいう「格物」であるとするのである。
一般には、性善説は、性は善であるという形で理解されており、その正誤が窮めつけられない問題であるであるとされるが、陽明のような理解に立って、この問題を考えてみるのも一法であろう。
また、このような陽明思想の根幹が理解されれば、行動を鼓舞する日本的陽明学は、本家のものと性格が異なっていることも自ずと理解されよう。
清代考証学の限界の一例ー孫星衍の見解から 5月27日 田中
孫星衍(1753-1818)は、『尚書』(一般では書経といわれるもの)に対する画期的な注釈をのこした学者として有名です。
現在、儒家の経典として五経の中の一つとして実存する『尚書』は、実際のところ、後世の偽作の篇が含まれており、漢代に存在し研究されていたものと少なからず文面が違っています。その偽作の篇は、他の篇に比べてかなり読みやすくなっており、朱子もこの点について疑念を抱いていたのですが、清代の閻若?キョ(1636-1704)・恵棟(1697-1758)らの研究によって偽作の存在が決定的になり、今でも偽作の篇は典拠としては学問的には扱えない状況です(因みに、「平成」の号は、大禹謨という偽作の篇から採られたようです)。
孫星衍は、これらの業績を受け継ぎ、偽作を除いた篇に対して漢代の馬融・鄭玄らの古い注をもとに、『尚書』の各篇の文意の再構築を図り、博引旁証によって緻密な注釈書をのこしました。現在でも、彼ののこした『尚書今古文注疏』は、『尚書』を研究する際の必備書です。
ところが、古注が読みづらく、更に古注そのものも古注を施した学者の見解でしかないものであって、孫氏はその古注を歪曲して自らの見解に引き込んだのでは思われる箇所があります(例えば『尚書今古文注疏』中華書局p52「象以典刑」・p121「方施象刑」の解)。そして、孫氏の見解の導き出し方自体に、現代的な視点からおかしいと思われる所が時々見られます。その一例として、次のようなものがあります。
鳥獣神靈者、猶知食自死之肉、不履生草。是天道有不傷生之証、聖人法之。古有其事、亦何疑焉。上古豢龍教擾猛獣之事、皆非後世所能行、不得謂『書傳』虚辭也。『平津館文稿』巻上・唐虞象刑論(◯鳥獣……生草 『駁五經異義』(『周禮』春官・鐘師「凡祭祀……」條正義所引)に、「古毛詩説、?虞義獣百虎黒文、食自死之肉、不食生物。」、『詩經』召南・?虞・孔疏に「?虞、義獣、不食生物。」『楽緯』協圖徴に「五音克諧各得其倫、則鳳凰至。……不啄生虫、不履践生草。」、『今本竹書紀年』上巻に「有鳳凰集、不食生虫、不履生草。」、李白「梁甫吟」に、「?虞不折生草茎。」馬端辰『毛詩傳箋通釋』三・?虞(皇清經解續編六p4656)參照。◯豢龍 『左傳』昭公二十九年に見える官職。白鳥清「豢龍氏御龍氏に就いての臆測」東洋學報第二十一巻第二号第三号參照。)
神聖な鳥獣でさえ、寿命を終えた生き物の肉しか食べず、生きている草さえ踏まない。これは、天の道として殺生をしないことの証拠であり、聖人はこれに基づいた。古代にはこのようなことがあったが、疑うまでもない。上古には豢龍という官が猛獣を手なずけたが、みな後世ではできないことだ。
|
堯舜の時代には肉体を傷つける刑など存在しなかったことを論じた部分ですが、このような他の記述があるから、この記述は正しいとする博引旁証の落とし穴にはまった感があります。
古典の掌握には、博引旁証の落とし穴に気づくことも大切ですし、また事実なのかそれとも意見・見解なのかを厳密に判断する必要があります。
知行合一についての簡単なノート
陽明の言う「知行合一」とは何か。山井湧氏の言葉を借りれば、「知(道徳の認識と是非善悪の判断)と行(道徳的実戦)とは、同じことの両面であり、あるいは、知は行の一種ないしその一部であって、知行は本来二つに分けられない。」(中国思想辞典・研文出版292頁)とする王陽明の見解なのである。
では、なぜ陽明は、かくの如き提言をせねばならなかったのであろうか。陽明が生きた明の時代は、朱子学が国学と定められ、『四庫大全』『性理大全』『五経大全』などか編まれた。その諸大全は、同時に科挙の為の標準的学説の役目をも担っており、それゆえ思想界は、朱子学一辺倒とならざるをえなかった。
翻ってみるに、朱子は、
知行常相須。(『朱子語類』巻九・論知行)
知と行とは、常に持ちつもたれつである。
と言っている。また、一方では、
知為先、行之為後、無可疑者。(『朱文公集』巻四十二・答呉晦叔)
知が先であり、行が後であることは疑いもない。
と言って、知先行後を説いている。朱子は、この知先行後の説が曲解されるのを恐れて、
豈可謂吾知未至、而暫輟以俟其至而後行哉。(同右)
どうして私の知は不完全であるから暫く行を据え置いて、知の完成するのを待ってから行なう、などと言ってよいものであろうか。
とも言っている。
しかし、いざ科挙登用の手段として朱子学が起用されると、朱子の危惧をよそに、知と行との乖離が起こってきたのである。この弊害をを救うためにも、陽明は、「知行合一」論を提言したのである。
「知行合一」論は、陽明が、
非以己意抑揚其間、姑為是説、以苟一時之効者也。(『語録』中巻一百三十三条・学生書局印行・王陽明伝習録詳註集評・陳栄捷著 以下同)
私見を基に、知行を当座に合わせるようにし、暫くこの説をなして一時的な効果を狙おうとしたのではない。
と言うように、単に実践を鼓舞した学説ではない。知行は、一元的なものなのである。
それでは、陽明は、知行をどのようにして一元的な、本来の知行の状態へと復帰させようとしたのであろうか。それは、陽明の「格物」の解釈と大いに関連する問題である。
陽明は、『大学』の「格物」を「物を格(ただ)す」と訓じる。そして、
物者?也。(『陽明全書』巻二十六・大学問)
物とは、事である。
と言い、「物」を「事」に限定する。以下、物の範囲を、鍾彩鈞の『王陽明的思想之進展』文史哲出版二十一頁を参考にして分類すると、以下のごとくである。
一、人情としての物…
喜怒哀楽(『語録』三十七条)
二、環境としての物…
艱難死生・富貴貧賤(『語録』三十七条)・静(『語録』八十七条)
三、行動としての物…
事親(『語録』九条)
陽明は、これらの「物」を「感応」という観点から大きく包括し、
以其明覚之感応而言、則謂之物。(『語録』一百七十四条)
その、すぐれた知覚が刺激を受け応じるという点で言えば、物と言う。
と言って、広範な定義によりまとめてもいる。畢竟ずるに、陽明の「物」と当事者の関わる事物を専ら指すと言えそうである。それ故に、陽明は、「身」「心」「意」「知」「物」という四つの概念に対しても、
只是一件。(『語録』二百一条)
ただ一つながりのものである。
と言っている。そして、それらの考えが「性即理」とする朱子を念頭に置いて開陳される時、
夫物理不外於吾心。(『語録』一百三十三条)
そもそも、物の理は我が心の外のものではない。
と表現されるのである。
以上のような論を基にすれば、「致良知」の性格規定も容易であろう。陽明学は、頓悟明道の学と受け取られやすい。しかし、陽明学は、人倫を離れた禅ではない。それは、知(道徳的な認識と是非善悪の判断)を、当事者の関わる実践里で発揮せしめようとする学問なのである。
従来、高校のテキスト、概論などでは、「知行合一」を「致良知」と並列して扱っていたが、王陽明の宗旨(スローガン)である「致良知」は、上に述べたように、「知行合一」と「格物」との連関で考えていくべきものであろう。
●あとがきーこれは数年前の覚え書きのたぐいです。
『尚書』誥に見える刑法観についてのノート(康王之誥・洛誥・召誥について) 3月25日 田中
韓非子は言う。
明主之國、無書簡之文。(『韓非子』五蠧)
明君の國には、先王の語などない。
と。この韓非子親筆とされる五蠧篇記述の背景に、戦國時代の末期当時には、諸家によって先王の言行が重んじられ、まとまりつつあったという事実が想像できる。
『尚書』の五誥、とりわけ康誥の記述のように、すでに西周時代に制作された原型を概ね残しているとされるものもあって、先秦思想の残骸を纔かながら伺い知ることができる。ただ現存する『尚書』はすべて儒家に拠ったものではない。
これから小考する誥とは、もともと王者が下の者に布告する公式的な文であったが、後々上下に係わらず布告する文をも誥とも呼ぶようになったものである。この中で、大誥・康誥・召誥・洛誥はいずれも周公に關わるものである。それゆえ、思想上、相い通ずるところがあり、大伝においては「五誥可以観仁。」(『尚書大伝』略説下)と記されている。文武の後、成康の治と稱せられる善政が続いたが、それは周公の影響に多く負う。
さて、『尚書』の中でも、多く引用される康誥篇は、
孟侯、朕其弟小子封。維乃丕顕考文王、克明徳慎罰。(『尚書』康誥)
諸侯の旗頭である康叔よ。私の弟である幼い封よ。おまえの立派な父文王は、よく徳につとめ刑を緩くした。(譯は孫星衍『尚書今古文注疏』に據る。十三經正義と異なる譯は次のように括弧内に記す。正義は、「克明」以下をよく徳あるものを用い、罰を慎重に行なった。)
と、成王を代弁する周公の発言の初頭おいて、文王の事蹟から説き起こし、「明徳慎罰」に言及する。この「明徳」思想は、『尚書』多方に見られる他、後々断章取義的に様々な文献に現れるが、『尚書』康誥での意味は、下文の「庸庸、祗祗。」の解釈の相違に引きずられ、『禮記』大学篇におけるような自身の至徳を明かにするという哲学的に抽象化されたもの(注1)とするか、人材の登用を言うものとするかで見解が分かれる。それはともかく愼罰の具体的な内容について、次のように言う。
敬明乃罰。人有小罪。非樗T惟終。自作不典式爾、有厥罪小、乃不可不殺。乃有大罪非終、乃惟注ミ、適爾既道極厥辜、時乃不可殺。 (康誥)
おまえの刑罰を慎重に且つはっきりさせよ。もし、小さな罪を犯した者がいるとして、それが過失ではなく、繰り返し良からぬことを故意にしでかすのなら、その罪が小さくとも殺さなくてはならない。大罪であっても、繰り返してではなく過失で行ったのなら、正しい方法によってその罪の原因までも訊ねはっきりさせて、殺してはならない。(正義は、「式爾」以下を、おまえに背くようなら、小さな罪であるとしても、殺さなくてはならない。もし、大罪を犯した者がいるとしても、それが一時的なものであり、過失ならば、審議の道理を尽くし罪を究明しなければならない。殺してはならない。)
『大傳』では愼刑の意味を、不公平ではないか三度自問することとする。これは『大傳』が傍証を他書・伝聞に求めたという性格に起因するのであるが、(註2)本文と合わない。康誥に言う愼罰の意味を孫氏は、原情、つまり罪の動機をもつぶさに調べ刑罰の軽重をそれに合致したものにし、刑を緩め刑罰執行の數を抑えることと取る。刑すべきは刑する厳罰思想との兼ね合いから、そう解するのが順当であろう。『尚書』多方にも周公の語として「明徳愼罰」が見える。正義では「愼」を「愼去」(康誥)・「畏愼」(多方)と解しているが、「愼」にたいする解釈の方向性は同じである。ただ、愼罰とは、
汝陳時~、事罰蔽殷彝。用其義刑義殺、勿庸以次汝封。(『尚書』康誥)
おまえがこのこのおきてを敷く以上、処罰に殷の法によって断じ義にかなった刑殺を用いおまえ封の心のまま行なってはならない。
とあるように、為政者の心構えも含まれるものかもしれない。罪の対象としては、
元惡大、矧維不孝不友。子弗祗服厥父事、大傷厥考心。……乃其速由文王作罰、刑此無赦。(『尚書』康誥)
大惡人はとても憎まれるものである。ましてや、親に対し不孝であったり兄弟に対し友好的でなかったりするのは、尚更である。子が父の道に謹み服さないことは、父の心を痛く損なうものである。…速やかに文王の制定した罰によって、この(五常を破った)者を刑して許しはならない。
とある。「罪は不孝より大なるはなし。」(『孝経』五刑)、と言われるように、孝敬・悌友は、儒家にとって重要な倫理事項である。孔子は、孝弟を「仁の本」(『論語』学而)と考えたとされ、
孝乎、維孝。友于兄弟。施於有政。(『論語』為政)
孝だなあ。兄弟仲睦まじい。これは、政治を行なうこと(と同様)である。(訳は注疏による)
と『尚書』の句を引き、孝弟であることが政局の安定につながると見る。孔子の引用した『尚書』は、偽古文君陳篇に見られるが、ともあれ、康誥では不孝者、犯罪の常習犯は國家泯乱を招くものと解するゆえに、厳罰に処することをも辞さないことを述べるのである。
康誥篇は、「明徳慎罰」の思想を基調とし、為政者としての心構え、罪の動機の勘合、更には何を罪とすべきかについてこと細かに述べる。しかし、この康誥篇に限って、何故刑罰に関する記述が多いのであろうか。それは、書序に基づいて考えれば、被征服民である殷の余民を統治する場合、反乱など先行き不安な情勢が想定されたためであろう。康誥篇が、諸家に引用されることが多いのは、野村氏の推論するように、何らかの理由で康誥篇のみが世に出たということも考えられようが、康誥には、儒家思想に通ずる王道思想が説かれているゆえ、諸子の中で最も多く引用され、称揚されるとも考えられる(注3)。
成王と周公との対話のごとき体裁を持つ洛誥には、
公勿替刑、四方其世享。……(周公曰、)考朕昭子刑、乃單文祖徳。(洛誥)
成王は、「周公よ、あなたの法を捨て去らないで下さい。そうすれば、四方の者たちは世々その恩恵を受けましょう。」と言った。……周公は、「私が作った、あなたを顕彰する法は、すべて文王の徳によるものです。」
とある。文王は、康誥にも現れたが、罰則を制定した王である。
成王に対して、召公は言う。
亦敢殄戮、用乂民。(召誥)
また、断乎として殺戮をやめ、人民を統治して下さい。
と。諌言の中において刑罰に言及し、死刑を止めるようにと言う。
成王の継承者として天子の位に立とうとする時、太保は康王に忠言する。この康王之誥は、誥の中でも珍しく、
維新陟王、畢協賞罰、勘定厥功、用敷遺後人休。(康王之誥)
ここに最近崩御された成王はすべて賞罰に従ってよく功績を立てられ後の人々に広め終わられた。(ここに新たに王位に就かれました康王におかれましては、賞罰をすべて調和のあるものにし、王としての功績を立て、後の人々の美徳を残し広めて下さい。)
のように、賞罰について説き及んでいる。孔伝に基づいて主格を康王と考えるなら、すでに周公の援助の下、成王の徳政が人民を感化した以上、前世の治政方法を踏襲した上で更に用意されなくてはならないものは、賞によって官吏・人民を励まし王道を完成することであったのであろう。
以上検討した諸誥は、いずれも周書のものである。それゆえ、文王・周公の事柄に関しての記述が多かった。
【注】
(1)鄭注「明明徳、以顕明其至徳也。」、孔穎達疏「在明明徳者、言大学之道、在於章明己之光明之徳。謂身有明徳、而更章顕之。」とある。「明徳」の個所の引用は、『左伝』成公二年に「明徳慎罰、文王所以造周也。明徳謂務崇之之謂也。」とある。
(2)子夏曰、「昔三王愨、然後欲錯刑遂罰。平心而応之和。然後行之。然且曰、吾意者以不平慮之乎。吾意者以不平慮之乎。如此者三。然後行之。此之謂慎罰。(『尚書大伝』略説上)(4)何晏集解に「馬曰、克己、約身。孔曰復反也。身能反禮、則為仁。」と言うに従った。
(3)野村茂夫『先秦における尚書の流伝についての若干の考察』日本中國学会第十七集・第二節
●あとがきーこれは数年前の覚え書きのたぐいです。
思想の必要性 2月26日 田中
人は、それが物であれ何であれ絶えず対象に働きかけながらいきている。このことを裏から見ると、人は半ば対象に依存しながら存在しうるとも言えるかもしれない。前者は、人間の意思・志向をもとにした人間観であり、後者は唯物論的に人間を位置づけたものであるが、原初仏教の根幹思想の多くは後者寄りである。
此生ずるに依りて彼生ず。此滅するに依りて彼滅す。(佛所行讃・第十三品)
のように、暫く個の存在(我)を埋没させ、その上で人間のさまざまな問題を発生論的に見極め、諦観を得ようとするのである。それは、相対的に人間を捉え、個の存在(我)の苦は、さまざまな因果の集結したもの(縁起)として、迷いの根元を断ち、涅槃(無憂の境地)に近づこうとするものとも言えよう。
ただ、彼らの多くは徒党を組み求道を專にして、現実の雑事を疎かにする嫌いが無くはないので、この点が批判されることも多い。だから、明代の思想家に次のようにも言われる。
あの頑固に空にこだわり心うつろで静を尊ぶ輩は、事物に応じる際自分の心の内にある天の理を見極め、その本性である良知を発揮できず、人として人と関わる道理も捨て去り、寂滅(無憂の境地)・虚無(実体を相対視する考え)を常の修養としている。
彼頑空虚靜之徒、正惟不能隨事隨物精察此心之天理、以致其本然之良知。而遺棄倫理、寂滅虚無以爲常。(『伝習録』137)
と。これも致し方ない。
そもそも、思想・哲学は、その時代・地域・習慣・歴史の中で培われたもので、人間という個体が生まれがらの環境によってもたらされた遺伝的な差異を引きずりながら、更にその環境的要因としての風土に大いに影響を受けつつ、その人間に委ねられながら発展していくしかないという宿命をもつものであって、それゆえに、さまざまな特徴あるものが生まれるのである。こう考えるなら、とある思想家の思想こそが全人類的な標準であるなどとは決して言えまい。
さて、かつて流行を見せながら、その思想的価値が今でもなお有効な実存主義哲学が提起したものは、没我をいかに克服するものかということであった。今までのスコラ哲学は、いたずらに精神優位主義に奔りすぎた。ルネサンス、宗教改革、産業革命にも見られる科学技術の発展、ヨーロッパの価値的没落、民主主義の台頭など、スコラ哲学の抽象的規範では、もはや個々人の日常から来る悩みを完全に把握しきれない状況が生まれた。そういう状況の中で、人間の存在・精神の働かせ方を教示し誘導してくれる新たな哲学が必要となったのである。
人間とは何なのか、自己とは何なのかを改めて追求することによって、その渇望された哲学が生まれたのだが、唯物論的に突き詰めていった一つの到達点がマルクス主義であるとすれば、唯心論的・精神論的に突き詰めていった一つの到達点が実存主義とも言える。実存主義者は、世界観と個人の問題・社会観と個人の問題をどう捕らえなおしたかで更に区分けできようが、日常生活の中での関わりのありかたを深く問い形成することにより解決の道を探ろうとした。そして、超越・奴隷道徳の破棄・投企・社会参加(engagement仏語)・神への忠誠など、各哲学者の信念の下さまざまと概念的な分岐を見せた。
しかし、風土的・性格的な要素が影響するためであろうが、集団という没我の中で自己の存在意義を見出し、自己を磨くという考えを多くの西洋思想は理解できず、多くは心の安寧という観点を疎かにしているとも考えられなくもない。
東洋的思想・西洋的思想、それらはその地盤では有効に働きはするが全人類的な者ではなく、それ故に強引な理論的な押しつけは当人の偏狭さを露呈するものだとも言える。
最後に卑近な例だが、最近、鯨漁と狐狩りが動物愛護の観点からか批判を浴び、鯨の肉は普段はなかなか手に入れることはできない。かつて、二十年前には食べていられたのに、よその国がとやかく言う筋合いのものではないという意見もあるが、かつての給食にまで鯨の肉が出されたりしていて、日本人は家畜の肉と同じように考えている人がおり、これが全人類的な考えになると恐ろしいことになる。槍で命がけで鯨をしとめた生存のための時代と銃器でかつてよりも危険が無く捕獲できる商用のための時代との相違を考慮せず、捕鯨は日本の文化の一部だとごり押しすることは空しい。それは、商業的利用と生存のための利用という観点を閑却しているためでもある。思想・哲学は、男女の脳内の構造が違うように各国・各人相違があるからこそバランスがとれているとも考えられる。
呂刑における刑法観についてのノート 1月10日 田中
呂刑は、あたかも後の正史の刑法史の如き体裁であるが、書序に
呂侯は、穆王の命を受け夏の贖刑を解釈し呂刑をなした。
呂命穆王、訓夏贖刑。作呂刑。(『書経』・呂刑序)
というように、周の穆王にかけられる篇である。成・康の善政から下ること数十年、なぜ五代目の穆王が、「墨辟疑赦、其罰百゚……」のごとき贖刑を復活させなければならなかったのか。『史記』は、穆王が謀父の諌を聞かず犬戎征伐をし、周の威徳が振るわなくなったからとする。それは、
周の道徳は既に衰え、穆王は老いさらぼえてしまった。時世を鑑み、甫侯に命じ刑法を制定して、四方を正した。
周道既衰、穆王T荒。命甫侯、度時作刑、以詰四方。(『漢書』刑法志)
とあるように、『漢書』においても同様であり、周の権威が衰えたためとする。が、逆に刑罰が頻繁になったため、穆王が呂侯に贖刑を制定させたとする立場があり、元の馬端臨は、刑罰の条文が繁雑になり見動きがとれなくなったためとする(末尾の資料篇參照)。しかし、贖刑の制定は、
舜典に言う贖刑は、官府や学校の刑であろう。五刑に は、もともと贖刑などなかった。…‥今、穆王の贖刑は、たとえ死刑であっても、贖金をあげれば許されるのである。……もし、そうであれば、富んだ者が生きられ、貧しい者だけが死ぬことになろう。……穆王は、節度なく遠國に行ったため、財産がなくなり人民は疲労した。末年になって計算することができなくなり、臨機の処置を講じて、人民の財産を取り立てたのであっ た。
盖舜典所謂贖者、官府学校之刑爾。若五刑、則固未嘗贖。……今穆王贖法、雖大辟、亦与其贖免除矣。…如此則富者得生、貧者独死。…穆王巡遊無度、財匱民労。至於末年、無以為計算。乃為此一切権宜之術、以斂民財産焉(『書経集伝』)
とあって財政的な理由からであるとする者もいる。呂刑は、小島祐馬氏の考証において既に明らかにされたとおり、斉における伯夷伝説や管仲前後の刑罰に関する史実を基に潤色され作られたものと考えられるので、実際のところは、『集伝』に近く、出征後の財産上の理由が大きく関係するものであろう。
歴史的な考証は、以上で終わるとして、次に呂刑自体の思想について考えてみたい。
蚩尤という者が始めて乱を起こし、それが周囲の純朴な民までに影響し、盗み、殺傷がまかりとおった。我もの顔で惡事を働き、人のものを盗み上の名をかたったりした。後、三苗の主君である苗民も、(蚩尤のように)善行をなすことなく、重い刑罰を制定し、五虐の刑を作って自ら「法」と称した。
蚩尤惟始作乱、延及于平民、罔不寇賊、鴟義姦チ、奪攘矯虔。苗民弗用霊、制以刑、惟作五虐之刑曰法。」(『尚書』・呂刑)
蚩尤は、『山海経』・孔疏などに拠ると黄帝と同時期の人物、苗民は堯と同時期の人物とされる。三苗の主君である苗民という人物は、法を制定したが、蚩尤に惡影響され、あまりにも過酷な刑を作り、罪もない民を殺したため、堯に誅されたという。蚩尤・三苗について陳述したことは、それによって刑を司る者が有徳の者でなくてはならぬことを対照的に明かにする目的があったのである。
(堯の)裁判官は威圧するのをやめたのでなく、富みある者との関係を断ったのである。
典獄非訖于威、惟訖于富。(呂刑)
人民を統括し教化する官吏も清簾でなくてはならない。かくて、堯は
伯夷は典禮を下し、民を裁くのに法を用いた。……皋陶は百官を中正な法のうちに統轄し、人民ら徳を慎むようにさせた。
伯夷降典、折民維刑。……士制百姓于刑之中、以教祇徳。(『尚書』呂刑篇)
に見られるように、刑の中正をも尊び、人民教導を志し成功したとされる。穆王は、
立派な人物こそ、裁くことができるのである
維良折獄。
と言う。
慎罰に関しての記述も多く、
刑罰は、惡人を懲らしめるものであり、殺すものではない。
罰懲、非死。
と刑罰の目的効用に言及し、
よくよく罪人の供述を聞いて、法理に照らし、詳しく審議 できるようにせよ。
惟察、惟法、其審克之。(呂刑)
と言うように、裁判上の過失を極力なくそうと努める。このように呂刑篇には、刑官が無私公平な徳のある人物でなくてはならぬこと、中正を尊ぶ考え、宥罪、贖罪などの慎罰の考えがあり、それゆえに、『尚書大伝』には、
甫刑には、いましめを見ることができる。
甫刑可以観誡。(『尚書大伝』巻七)
と言うのである。
【資料】
○墨罰之属千。B罰之属千。D罰之属五百。宮罰之属三百。大辟之属其属二百。五刑之属三千。(呂刑)
○周成康時、刑錯不用。至穆王刑殺益繁。故復古制而仍参用夏之贖刑耳。(『尚書大伝疏証』巻六)
○唐虞時、刑軽律簡。是以罰金法、止及鞭〓而已。五刑無贖刑。至周律極繁、五刑之屬至三千。悉適用之、天下人無完膚。穆王哀之、五刑疑各以贖論。(『文献通考』刑法部)皮錫瑞は「周成康時、刑錯不用。至穆王刑殺益繁。故復古制而仍参用夏之贖刑耳。」(『尚書大伝疏証』巻六)と言う。
●あとがきーこれは数年前の覚え書きのたぐいです。
行動主義というレッテル 2000 12月27日 田中
王陽明の思想は一応心学という範疇入る。では、その心学とは何かを調べると、Bookshelfに「内なる心を修養し、実践によって聖人に近づこうとする思想。」とある。その他の解説でも「実践」という言葉とともに説明しているのをよく見かけるが、殊更に「実践」という言葉を使うのはなぜなのか腑に落ちない。
『陽明全書』にある年譜には
按先生立教皆經實踐、……(三十九歳)。
とあるが、これは座禅という実践によって心を明鏡のように汚れないものにしようとしたことをいう。この年譜の「実践」と今の我々が使う「実践」とは意味合いが異なっている。
また、陽明自身の一生を振り返って、他の官吏とは異なった何か突拍子もない「実践」をしたかというと、様々な官位を経て本来文官なのに軍事関連の仕事を任され諸賊を平定後教化したという名誉ある業績を多く残したが、それは役職上の成果に過ぎない。しかし、思想家としては類を見ないためか、この業績と思想とを多くの人は混交しがちである。出世のための学問と成り果てた儒学・朱子学の末弊を憐れみ、儒学精神の再興を願い赴く随所で講義をしたことの方がより重要なのだが、これも「実践」と言えるものなのであろうか。補足すれば、陽明が望んだのは儒学に新たな息吹を吹き込むことではなく、彼なりに生命を賭して理解し信じた儒学精神を人々に理解体得させることであった。師弟という閉じられた間で自説を展開するならともかく、陽明のしたことは当時朱子学一辺倒の風潮の中、決して安全とは言えなかったであろうが、「実践」と括れるものか疑問である。
結論からいうと、陽明は自分の行為・思いは心から生じたものであるから、その行為・思いが不善であればそれを正しながら心に磨きをかけ、磨かれた心が生じた行為・思いを日常生活で発揮できるように努力しなければならないということを説いたのであって、「実践」という言葉につきまとう意味合いでの「果敢な行動」を期待したのではない。また、心学とは朱子学が世界の究極原理である理を重要視した理学に対し、究極原理である理を生まれながらにして備えている心の方を重要視した学問のことであって、一般に理解されているものとは距離がある。
京大東洋史『独裁政治の時代』創元社・1975の3章2国民文化の成立と行動主義学説という節に「彼のこの資質の中に豊かな直感的知性と行動への燃ゆるごとき情熱がみられる」とあるのは、陽明の学説と筆者によって過評価された行状・業績とを混交した感想でしかないであろう。このような見解が、今も引きずられ「実践への使命感」(『伝統中国の完成』岩見宏+谷口規矩雄・講談社現代新書・1986)などとして現れる。理知的な朱子学・行動主義的な陽明学という分け方は、イメージとして記憶に定着しやすいという教法上の便宜から、また日本陽明学が「実践」を重視したという点から、どうも専門外の人に定着しているが、困ったものである。
魂魄・鬼神について 2000 11月31日 田中
日本では「たましい・霊魂・神・ほとけ」などという言葉を使用するが、よろずの神を許容する多神教的な風土もあってか体系的に受容しているわけではない。中国の場合、三教(道教・仏教・儒教)が互いに凌ぎあってはいても、民間では道教信仰が根強い。その故か儒教は道教的な要素を取り込んでの発展も見られ、儒教の体系も時代によって相を異にする。
ここでは、儒教的な「死生観」の一思潮を魂魄・鬼神という語ついて疑義を簡単にまとめてみたい。
まず「魂魄」についてであるが、「たましい」と訳され意味的にはそれほどばらつきはない。辞書を引くと必ず出てくる『左伝』には、
人生始化曰魄、既生魄、陽曰魂。(昭公七年)
という。これは、「魂」「魄」いう字をそれぞれ説明しているのだが、孔疏は「附形之靈爲魄、附氣之神爲魂。」という。「魄」も「魂」も「たましい」なのだが、「魄」は肉体的の働きに着目したもので「魂」は精神的な働きに着目したものである。そして、「魂」の方が陽に属するのである。『説文』には「魄、陰神也。」「魂、陽神也。」というが、魄は地に帰り、魂は天に帰るからと説明される。
言わずもがなかもしれないが、一応ここで注意したい。原則として「魂魄」は生前の状態、「鬼神」は死後の状態を言うのであるということを。
さて、その「鬼神」についてであるが、これが甚だ厄介な言葉であり、鬼神についての本まで出されているほどである。
『大漢和』に挙げる意味は
一、死人の霊魂。祖先の神霊。
二、神明叡知な神霊。
三、形体の靈と精神の靈。魂魄。
四、おにがみ。
五、天地創造の神。
などである。「鬼」は「塊」の構成要素にもなっているように、まるいものというのが語原であると思われるが、古くから『説文』はもとより「帰」と関連づけている。
人之所以生者、精氣也。……鬼神、荒忽不見之名也。人死精神升天、骸骨歸土、故謂之鬼。鬼者、歸也。神者、荒忽無形者也。……神者、伸也。(『論衡』人死)
と見られるのが、分かりやすい。はっきりと見えないが、そのすぐれた働きは精気が尽きた人の死後天に昇る。だから、「神=伸」という。肉体の方は土に帰る。だから、「鬼=歸」という。哲学的には、この『論衡』のような論法が基調となっているが、民間ではと言うと、「死者のたましい」と関連づけられる。それゆえ、紛らわしく、またその不分明な点が錯綜を生じるのである。
繰り返せば、「鬼」と「神(すぐれた働き)」とが結びつき文脈中で様々な意味を派生させたのであるが、これも基本的には戴震が「鬼神即以名其精氣」(『中庸補注』ー電子テキストは私のHPにあり)と総括しているように漠然とした物質の根元となるものであり、先祖・天への崇拝の観念から死者に関連させた意味も生ずるのである。
これを更に理論的に説明したがる思想家もおり代表的なのが朱子であり、『朱子語類』卷第六十八・易四・乾上に
鬼神是陰陽二氣往來屈伸。天地間如消底是鬼、息底是神。生底是神、死底是鬼。以四時言之、春夏便爲神、秋冬便爲鬼。又如晝夜、晝便是神、夜便是鬼。
という。気の屈伸により鬼神を説明し、「鬼」は「屈」した場合という。
しかし、上の大漢和に挙げる、五の「天地創造の神」というのは当時表現する言葉に乏しいためか、といって現在でも強いて言うなら「造物主」としか言いようのないものであるが、これも極まるところ、「漠然とした物質の根元」の拡大解釈、あるいは別称とも考えられるものである。また、三の「形体の靈と精神の靈。魂魄。」の「魂魄」は辞書の語意説明としては誤解・混乱を招く恐れがあり説明不足気味である。
●あとがき
以前、「陽神」についてweb上で調べていたら少年漫画『ジャンプ』のヌーべーのサイトが多かったのですが、なぜ陽神なのか幸いにも現代少年の雑誌にも興味を持っていたので理解できました。
墓について 2000 10月31日 田中
最近ペット(シーズー犬)をなくして亡骸を燃やし庭に散灰しました。その老犬は前日まで私の体にぴったりくっついて寝てくれました。人間を家庭内介護する人が、被介護者の死を哀惜とともに解放されたという複雑に入り交じった感情を持つ場合があることを以前知りましたが、私の場合も正直言ってこれと同じ感情でした。
今まで日常生活で普段接していた人・動物が突然いなくなると、今まで通りの生活が思うようにできず、また、身の回りに嘗ての存在を想起させる物があると否応なくかつての存在物象が心を占拠するので更に日常生活に困難を来したりします。死ぬ以前に病院という日常生活から隔離できる施設に預けることができる現代は、その意味で生活者にとってはありがたいものとも言えます。
死後処理をどうするかは、文化人類学の分野で研究されているもので、国・地域によって散灰・野に捨てる鳥葬など種類は多くありますが、墓という特別な施設・場所は日常生活に支障を来さないように配慮された人間の知恵とも言える物です。
日本語で一般的に使用される「墓」いう語以外には「塚ーつか」(土を小高く盛ったもの)・「墳墓ーふんぼ」・「寿陵ーじゅりょう」(生前に作ったもの)・「青山ーせいざん」・「土饅頭ーどまんじゅう」という語もあります(角川類語新辞典参照)。
中国でも「墓」という語を使用しますが、それ以外に「丘・陵・冢・墓」などという語があり、それぞれ時代によって使い分けられていたのです(『日知録』卷十五・陵参照)。
では、なぜ「墓」という語が使用されたかというと、『釈名』には「墓、慕也。」と言います。確かに語原上のつながりは否定できませんが、このような言説の多くはこじつけに近く、では「幕」・「莫」をどう説明するのかと逆に問い返したい衝動にも駆られます。「墓」は「莫ーなきもの」のためにしつらえた所と考えた方が妥当ではないかと思われます。
生身の人間でも虫の知らせで肉親の死亡を悟るように、生物の精神作用には不可解・不思議なものがありますが、中国でも古くから霊魂の不滅論・滅亡論の論争が盛んでした。また、日本では水子のたたりなど殊更「たたり」という恐怖感によって供養を促そうとする宗派が存在しますが、これはつい最近の新興仏教のもので、元来仏教では「たたり」などという「おどし」は正当視されていません。
相当な修行・相当な敵意によって生じた死後なお残る「念」の存在自体は否定しませんが、肉体が滅べばその肉体を頼りに行われた記憶などの精神作用は無に帰するものであって、生存者が死亡したものとの思い出によって日常生活に支障を来すのは死亡したものにとって逆に迷惑だとも言いうるかもしれません。
そして、遺体を埋めた墓だから、そこに死亡したものの靈があるというのは人間の勝手な思い込みで、不慮の事故死ではなく寿命が尽きたものの墓は単に生存者が嘗て存在していた生命体を思い出すよすがとしてのみその存在価値があると考えられます。
殺生を繰り返してしか生存できない人間がこれまで殺生してきた動植物を弔うことをせず、人間だけを弔うというのは人間の思い上がった発想ではないかとも言いうるかもしれません。
誠・まことについて 2000 9月25日 田中
「誠」という語を日本では「まこと」つまり、「真事(言)」と解している。また、「忠」を「まごころ」つまり、「真心」と解している。「誠心誠意」・「誠意」また、「誠」という語自体を日本人は好んで使うが、「誠心」と「誠意」の違いは何なのかを全く顧みず使用したり、「誠の……」や「誠に……」など名詞「誠」との意味のつながりに無頓着に使用したりして、中国語本来の意味とずれを意識していない。そして、精神を高めるという幻惑的でとりとめもない言説に惑わされ、「忠誠を尽くすという」といいながら極端な行動に走らせる標語となったり、「誠意を尽くす」が自分が犯した過ちに対して心を込めて謝罪するという意味に限定されたりして「誠」という語に対する日本語には偏りが見られる。
中国語では「誠心誠意」という語は真摯で生真面目なことを意味し、類語として「全心全意」「一心一意」という語がある。
「誠」は「成」と「言」からできた形声語で、「成」に意味的なつながりがあり、「中身が空でない・中身がしっかりしている」(藤堂氏はまとまっている・一貫している、とする。ー漢字語源辞典)というのが原義に近く、『説文』では「誠」を「信」と解説し、鄭玄は「実」と訓じている。「誠心」といった場合の「心」とは人の行動すべてをつかさどる精神自体を漠然と指したものであり、「誠意」といった場合の「意」とは心を働かした結果ある方向性を持つに至った「想念」のことを指す。conscienceの訳語としての「意識」や仏教で言う六識の一つの「意識」とは考え方の立脚点が違い、「知情意」といった場合の「意志」とも違うのだが、うやむやに使っている感がある。
漢代の儒学は、それまでの呪術集団的なものから国家体制を扶翼する爲政集団的な性格をより求められ、例えば『孝経』に見られるような「家族の孝」と「天子に対する忠」とを無理矢理つなげた論理を構築したり、老荘思想に対抗する上からも天と地に関する論理的思想も求められ『中庸』の「誠」によってそれを解決しようとしたりした(勿論、修養上の理論要請からこの「誠」の理論が生まれたことの方が大きいが)。
誠者、天之道也。誠之者、人之道也。
誠は天の性質である。誠であろうと努力するのは人が生きるための方法である。
とあるのが、その一つである。
宋になると、仏教の壮大な理論に対抗すべく儒学に新たな方向性が求められ、朱子は独特の理気二元論によって儒学の再構築を試みた。彼は『論語』とともに『孟子』『大學』『中庸』を取り上げ四書とし注を施し、それまであまり顧みられることのなかった「誠」を「理の実」として顕彰した。この時から「誠」の意味合い・重さが変質し、それに相応じて天と人との関係も変質した。天人相關の説自體、先秦以前と漢以降のものとは性格が異なっており、前者においては人よりも天の優位が當然視され、漢の董仲舒においては「天人合一」思想に見られるように天と人との同類が説かれるようになる。そして、この天と人との關係が宋明になると限りなく接近し、陽明に至って、いわば同質とされるようになった。天人同質の論は、宋明理學の一性質でもあって、例えば、『朱子語類』に
「天人本只一理。若理會得此意、則天何嘗大、人何嘗小也。」(大學四或問上・傳一章)、
「問「塞乎天地之間」。曰、「天地之氣無所不到、無處不透、是他氣剛、雖金石也透過。人便是稟得這箇氣無欠闕、所以程子曰、天人一也、更不分別。」(同・孟子二・公孫丑上之上)
と見え、
陽明は
「心也者、吾所得於天之理也。無濶欄V人、無分於古今。」(『全書』卷二十一・答徐成之二)
と言っている。これら人の「誠」が天の理とかけ離れたものではないとする論は、「無」から「有」が生じるとする老荘思想に対抗するものでもある。
さて、日本近世の歌論・文学論では特に、「まこと」を重要な文学理念として持ち上げることとなった。そして、上代文学の特質が「まこと」であり、中世のそれは「あはれ」であるというような説も現れてきた。この場合の「まこと」は、「ありのままで飾るところがない」つまり、実直であるという意味である。『古今集』序に
僧正返照は、歌のさまは得たれどもまこと少なし。
と言う。この「まこと」は現代日本語とも中国語も微妙に意味がずれている。極端な例として、
神の道は、世に優れたる誠の道なり(玉勝間)。
という本居宣長の説があり、彼は「からごころー漢心」を批判し、皇国たる日本の優位を説くかのようであった。
思想家の論に引きずられたり、日本語に引きずられると中国の古典を誤読してしまうので注意したい点である。また、額縁に「誠」と筆書きしたものを見受けるが、どういう意味の「誠」なのか書く方も考えて欲しいものでもある。
1 マルチン・ブーバー『われとなんじ』を読んでの雑感 2000 8月19日記 田中
この書の作者はユダヤ人の神秘思想家として有名で、人間学(人間についての生物学的・科学的研究を主とする人類学に対して、人間性の本質、宇宙における人間の地位や意義などを明らかにしようとする哲学的研究。たとえば、ホッブズの人間論、ヒュームの人間性論などのたぐい。BookShelfより)においてよく語られる人物である。嘗て(表面的に見た場合)乾いた思想とでもいうべきニーチェの思想に没頭していた時には批判的にしか読みとれなかったが、この書を再び読んで当時とは違った観点を得ることができた。
そもそも哲学的な思想には、「かくあらねばならない」という当為の主張がつきまとう。この『我と汝』の著者ブーバーも、自分とその利用対象としての関係「我とそれ」ではなく「我と汝」という根元的な関係を重視する。そして、この「汝と我」の究極的な関係が「我と永遠の汝」である。彼は次のように言う。
| われわれはこの世に留まるかぎり、神を見出すことができない。さりとて、この世を捨ててしまっても、神と出会うことはできない。いや、自分のすべてを捧げて、なんじと出会うことに努め、この世のすべてをなんじのみもとにもたらそうとしてはじめて、われわれが意識して求めてもさがし出せぬ神と、期せずして出会うことができるのである。(『孤独と愛』ブーバー・野口啓祐訳・創文社p116) |
このような敬虔・真摯な態度によって神との一体感が得られるとするのである。一般人にとってブーバーの言うような精神的深化の状態に達するのは困難であろうし、日々の生活に追われていると、その価値すら忘却してしまう。教会と聖書はそれを思い起こすものとして便利なものであり、祈り・告白というのも大衆を引き留める上で便利な手段であろう。こう考えてみると、キリスト教は一つの精神文化というよりシンボルとして権力者によって利用されてきたものというキリスト教史の一側面と重なるものがある。
さて、ブーバーは仏陀の思想について批評する。仏陀は「かたちの迷い」から遠ざかろうとするが、「かたち」はブーバーの思想、つまり「汝と我」という思想では「迷い」とはならず、かえって信頼されるものであるとする(同上p138)。思想上希求する到達点が違っているので、これは根本的な批判とはなりえていない。
思想家の主張というものはその本質上えてして一般の状況ととかけ離れているのだが、ブーバーの主張が一般の人に向けられたものとは、その著作の難渋な点から考えられない。むしろ知識人向けの啓発書の類であろう。このブーバーの真摯でかつ執拗な主張に、私は却って現実の状況についての考察を促されていった。
人は一人では生きていけない。宗教は帰属しているという安心感のみを与えるものになってしまったのだろうか。欧米で優れた人権宣言・独立宣言を唱えながら、覇権主義・帝国主義の道に邁進したのは、その理念・また根本の宗教がまやかしのものであることを証明するなにものでもないのではないか。理念・宗教上の教義があっても、人は身近な利害の衝突・想念上の衝突に気を取られ、またそれを優先しがちである。これは宗教の力不足を示すものなのだろうか。教義は理想であって現実には過去の怨恨を引きずったその国の情勢があり、また不信感など様々な理由から現在各国は武器の威力に頼り、人を殺す核爆弾が平和を維持するため必要だという。イスラム教のようにジハードを肯定している宗教の国ならまだしも、キリスト教を国教としながらその教義からは完全に逸脱している論理を振りかざしているのである。キリスト教は一つの精神文化というより、行事化されシンボルとして権力者によって今後とも利用されていくのだろうか。
以上、一体キリスト教徒が多い欧米諸国で何故、歴史上アーリア人のギリシャ侵入・インド南下以来現在に至るまで侵略や殺戮が繰り返されたのかを素人ながらの疑問を提示しつつ考えをまとめてみた。
【書評】『「真説陽明学」入門ー黄金の国の人間学ー』林田明大・三五館・1994 2000 7月1日記 田中
陽明の伝記・思想に関する一般向けの本で、私が作成した資料目録の中から特に印象に残っているものとして次の三冊があります。
1『王陽明詳伝』高瀬武次郎・文明堂・1904(広文堂書店・1915で再版)
2『陽明学入門』後藤基巳・プレイブックス・青春出版社・1971
3『王陽明ー百死千難に生きるー』山下龍二・中国の人と思想・集英社・1984
1は今でも陽明の伝記を調べる上で重宝するもので専門家が書かれたものです。2は当時「……入門」本が流行っていた時に出版されたもので陽明思想の専門家が書かれたものではありませんが、偏りが少ない非常に丁寧な入門書です。惜しむらくは入手困難で大学の図書館あるいは地方の図書館で閲覧できるようです。3は専門家が書かれたもので思想と伝記を絡ませて書かれており専門家ならではの的確な入門書です。ただ、筆者に直接お話をうかがいましたところ、資料として通俗小説『王陽明出身靖亂録』を参考にした点が他の厳格な研究者に批判の材料を提供することになったと仰っていました。学術書ではないので、何もそこまで目くじらを立てるまでもなかろうと私は思います。1 においても『王陽明出身靖亂録』を基にした形跡があります。
さて、林田明大氏の『「真説陽明学」入門ー黄金の国の人間学ー』ですが、著者自身陽明思想の専門家ではなく先人の諸先生のおこぼれを寄せ集めただけと述べていますが、筆者自身の非常に整理された伝記と思想との連結、そして時折挿入される筆者の意見が一般の読者を飽きさせません。後半の日本の陽明学者・安岡正篤氏の記述の詳細さなどは脱帽します。
ただ、彼の陽明学・良知解釈は彼独自のもので一般の読者に偏った陽明思想観を植え付けかねません。二三気になる点を挙げます。
| 陽明は述懐している。「私に対する劉瑾の怒りは相当なものだ。一生の栄達浮沈はすこしも気にならないが、生死のことだけが卒業できない」死への恐怖、生死の問題こそ、人生最大の問題であり、学問の根本的な問題であることを痛感したのである。「人生には、生命への恐怖以外に克服するものなど何もない」ことに気づいた陽明はこの後、バリァーを張り、殼にこもって、自然や他人に対立して生きること、他人と自分を比較したり競争したりすることの無意味さを理解し、同時に〈宇宙との一体化によるスピリチュアルな体験〉を味わうことになるのである。p52 |
これは、陽明が劉瑾の怒りを買い生命の危険を危ぶまれる地へ左遷された時の記述ですが、陽明の悟得に関して弟子の誇張を含んでいると思われる記述に基づき宗教体験と確定し、また資料に全く基づかない「死への恐怖……」以降の筆者の解説が記されています。筆者の論は殊更に陽明思想が自他の対極を統一し心の安寧を説くものとし、哲学的な論考を交えながらも宗教的な方向へと導いている観があります。いわゆる陽明学ではなく陽明教を喧伝しているかの印象を受けました。また、悩める現代人を対象とした林田流陽明学ではないかとも感じました。実際この著書の中には分裂的思考が精神疲労をもたらすから陽明学を持ち上げようとする筆者独自の意図による記述が多く見られます。この点、真説陽明学の表題は意味を成さないと判断せざるをえません。
| 知行合一説が、さらに拡充されて、晩年の万物一体の仁へとつながっていく。p60 |
とありますが、これも学術的に陽明学の底辺・根本思想を探求し損なった筆者の主張であって、いくら他の哲学者の意見を引用し陽明思想と類似していると判断し展開しようしてみても客観的には先に述べた林田流陽明学的論理の飛躍は覆うべくもないという感想を抱かざるをえません。しかし、陽明学入門書としてはこれまでにない読み応えのあるものです。
●あとがきーこの書評は決して林田氏を中傷しようして作成したものでなく、未熟な陽明学観を抱いている田中自身が疑念を公にしたまでです。至らなかった点があればご教示ください。
説文小考 2000 6月21日記 田中
今ではほとんど無くなりましたが、以前論文などで『説文』のみを引用して文字の古義を説き起こそうとしたものが多くありました。『説文』は一つの文字解であり、また一学派のものであって、甲骨文字学が進展している現状から見ると当時未出土で当然甲骨資料が活かされていないので、その点制約の多い字書なのです。そして、中には首を傾げざるをえない解釈もあります。
例えば、「武」という漢字に対し次のように言います。
楚莊王曰、「夫武定功輯兵。故止戈爲武。」
楚の莊王が言った。「そもそも勝利を確かなものにして武器を収める。だから戦争(戈)をとどめるという組み合わせから武という文字ができたのだ。」と。
これは『左伝』宣公十二年にある文に拠ったものですが、『説文』という書物は当時盛んであった儒学、つまり今文学と称されるものが経書の意味を乱していたため解釈を正そうとして成立したものであり、それゆえ『左伝』という今文ではないテキストを引用しています。ただ、これは強引な解釈であって却って経書を引くことで文字の意味を乱しているように思われます。
『説文』の著者とされる許慎は劉向という人物の学統を受け継いだ人であって、今世間の常識となっている漢字の成り立ちに関する六書という学説も劉向の学に基づいたものであり漢字の成り立ちがその六書で完全に説明できるかどうか疑問があります。『説文』はこのように功罪相半ばした書物であるわけです。
さて、「武」に話題を戻すと、「武」の構成要素の「止」は「足」のことであり、藤堂明保氏が解説されたように「慕・賦」などと同系のであり戈を持って勇んで歩む様を連想させる文字であったのではないかと思われます。氏も指摘するように「歩武」という語も『説文』では解釈できません(『漢字語源辞典』学灯社、『学研漢和大字典』学習研究社)。
文字は音を表す一つの記号であり字形にのみこだわると誤った、あるいは珍奇な語原解釈がこれからも現れることになります。藤堂氏の学説は奇抜すぎて現在定説とはなっていませんが、漢字は字形と音韻の両方から研究してゆかねばならないと思います。
●あとがきー『説文』成立・内容に関する基本文献として論文・「説文考」林泰輔氏のテキストを私のhpで公開しましたが、現在説文に関する必読の本として『漢字学ー説文解字の世界』阿部哲次氏・東海大学出版会があります。
聊齋志異を読んで 2000 5月24日記 田中
まず聊齋志異とは清の蒲松齡が著した伝奇小説と一般には理解されている。しかし、伝奇としても小説としてもその名称にそぐわない話が中には多い。幽霊・憑き物にまつわる奇譚もあるが、それが中心ではなく不思議な出来事の記述もあるものの怪奇とは全く無縁な記述もあり、人間を題材に取り扱ってる性質上必然的に淡々とした男女の性描写・レズビアン描写もあって、一読すると作者の全体の主題が把握しにくいところもある。
彼が司馬遷・韓非子に心服していた事実は識者によってとうに指摘されており、史記で多用される「太史公曰」に似た作者の締めくくり・感想や『韓非子』寓話に似せた短編を用い自身の心情を間接的に表現している。この書、聊齋志異はアラブの血を引き中国に帰化した作者蒲松齡が異常な才能と執念によって書かれた書物で、科挙に幾度も失敗した作者の憎悪の書である一方、作者の夢想する美しい世界を表現する書でもあった(前野直彬・聊齋志異『中国の名著』・東京大学中国文学研究室・勁草書房からの要約)が、また、弱い人間性を多く描写するところから、「貧者とか弱者、虐げられた人々への共感や同情」(稲田孝・『聊齋志異』講談社新書メチエp84)が、創作の基盤となりこの作品を独特のものともしていることも忘れてはなるまい。
魯迅の評論を読むまでなく、この書には狐に関わる話が多い(日本の狐に関するものは例えば、『日本の憑きもの』吉田禎吾・中公新書299で社会学的な考察あり)。ただ、中には竜に関わる話も多く見える。竜に関わる伝説は中国に限ったものではなく諸国に見られる。中国での竜に対する概念は仏教の影響により変形され一般人に理解されているが、なぜ竜に対し諸国共通して伝説が多く見られるのかは人間という種が行動様式の異なる爬虫類に対し生来的に危惧・嫌悪の念を持っていることと大いに関連があると思われる。私見であるが、中国の竜は天変の竜巻と蛇の行動様式との外見的類似により空想されまた権威化されたものではないか。白鳥清氏は『拳龍氏御龍氏に就いての臆測』東洋学報二十一卷第三号・昭和九年において、「龍態の起源は、雲雨を掌る天空の靈を表現化したもの」とされている。また、「巫覡階級の者に依って書き殘さるる時は、彼等の神秘力を益々神秘にせんとして、畜養してゐた靈獸は小龍と記され、更にその小龍は彼等の呪術の結果大龍と變じ雲を起す至り、雨を齎すこととなつたと言はるるに至るのである。」と言う。つまり、トリックからの連想・権威付けということである。龍に関する記載は漢籍において膨大であるが、王充『論衡』龍虚では龍が天に昇るのを信ずることの妄なることを説いており、記述にあるから信ずるという愚行に批判的な人物が古くいるにはいた。
竜宮は天空だけでなく海をも支配する神仙がいるという信仰から生まれたものと思われるが、聊齋志異においても爬虫類の鰐の種が竜宮と関連づけられてもいる(巻五・西湖主)。蒲松齡自身龍を見たからそれをそのまま記したのではなく、狐の憑きもの話における道士のトリックを恰も本当らしく書いているのと同じく、彼の創作による脚色のあとも考慮に入れて読んだ方がよい場合もある。次の挙げる話も一考を要するものである。
袁宣四という人が次のように言った。「蘇州にいた時、空が薄暗くなりはげしい雷鳴が起こるのに出くわした。大勢の者は、龍が雲の端から降りてくるのを見た。鱗や甲羅をあらわに動して、爪の中に人の頭をつかんでいて、鬚や眉まですっかり見えたのだった。しばらくして雲の中に入り見えなくなった。が、また頭をなくした者がいたというのを聞いたことがなかった。
袁宣四言。在蘇州、値陰晦、霹靂大作。衆見龍垂雲際。鱗甲張動、爪中摶一人頭、鬚眉畢見。移時、入雲而没。亦未聞有失其頭者。(巻二・龍・鑄雪齋本)
この話もどこからどこまで蒲松齡が創作・脚色したものか明瞭ではないが、旋毛風・竜巻などの天変の実話をもとにした話ではないかと想像する。
●あとがきー専門分野ではないですが、自由に意見を述べました。
『儒林外史』の孝についての一考察 2000 4月24日記 田中
古来より儒門では、孔子の提言を発端にして「孝」が様々な形で説かれ重要視されてきた。春秋戦國時代から前漢の間に纏められたと推定されている『孝経』は孝に對する世人の紛々として統一性のない概念を確乎たる位置に導いた書物とされている。該書では孝の概念規定とともに一般的に相反すると目される忠との相関を説き次のように言う。
子曰、資於事父以事母、其愛同。資於事父以事君、其敬同。……故以孝事君則忠。(士章第五)
父に事える気持ちで母に事えると、その愛情は同じとなる。致知に事える気持ちで君に事えると、その敬は同じとなる。……だから、孝の気持ちで君に事えれば、それは忠である。
また、
子曰、君子事親孝。故忠可移於君。(廣揚名章第十八)
これは漢王朝建國當時の社会状況に大きく関わる「親に事える孝が先か」「君に事える忠が先か」という課題に對して「孝は君への忠につながるという苦しい折衷を図る」(中國思想辭典・研文出版・加地伸行執筆「孝」)解決策でもあった。
『孟子』に、
禹八年於外、三過其門而不入。(滕文上・4)
と、聖人と後に称される禹が父鯀の後を引き継ぎ治水に暇なく八年の間、三度家の前を通り過ぎても入らなかったという故事があるが、言うまでもなく家庭内から平天下に至るまでの段階は儒家が重視する『大学』の八条目の内の修身・齊家・治國・平天下という序列に組み込まれたものであり、その段階を飛び越えて官僚になり禄を貪ることは原則的には排撃されてしかるべきものであった。
このことを念頭において『儒林外史』第六回にある、厳監生が息絶えた後に、その親族たる厳貢生が、
「『公而忘私、國而忘家。』我們科場是朝廷大典、我爲朝廷辨事、就是不顧私親、也還覺得于心無愧。」
といったのを考えてみると、それは眞儒を自負するものからみれば、許されぬ膚淺輕薄な辯解であると言わねばなるまい。このような件にこそ『儒林外史』が外史という枠内にことよせて正史では滅多に知ることができない俗儒を扱ったという特徴を見ることができるのである。(勿論この厳貢生という人物には原型となった人物が存在していたと考えられ「儒林外史人物本事考略」では厳庄をその原型としている。)
なお引用文中にある「公而忘私」には出典に留意する必要性があるままあると思われるので検討してみると、『漢書』賈誼傳に、
上設廉恥禮義以遇其臣、而臣不以節行報其上者、則非人類也。故化成俗定、則爲人臣者主耳忘身、國耳忘家、公耳忘私、利不苟就、害不苟去、唯義所在。
とあり、我々はここでユーモアを盛り込んだ音通仮借を故意に用いたことに気づき一笑せねばならなかったのかもしれない(現在では成語として公耳忘私よりも公而忘私が常用される)。それはともかく、大義の實が備わらないの所にこのような引用句を口実に用いるのはいかにも「外史」中の人物としてふさわしく読者の一考を誘うものであるとも思われる。
かといって『儒林外史』を單なる通俗的な暴露小説であると割り切ってしまうことは觀點を危うくする。既に齊藤喜代子氏が「儒林外史『自禮空王』考」の中で指摘したとおり該書は、「實は儒の本来的な姿を希求する滿腔の情熱によって書かれている」のであり、魯迅の言う公心どころか、「儒の世界に固執する者によって書かれた」(同右)ものなのである。この間の事情は、第一回の最初に次のように書かれていることからも類推できる。すなわち、
但世人一見了功名、便舍著性命去求他。及至到手之後、味同嚼蝋。自古及今、那一個是看得破的。
と言って、書き出しから該書の方向性を暗示しているのである。なお因みに呉敬梓は「自古及今」と公言しているが、舉業と聖人を追い慕う学問としての儒学との関連については、王陽明の登場を待つまでもなく既に程伊川が『二程外書』巻十一で、
故科挙之事、不患妨功、惟患奪志。(『近思録』巻七・三十五、『伝習録』百三にも引用される。)
と言っており、更に贅言をものすれば、王龍溪に
陽明夫子嘗以好名好貨好色爲三大欲。(『王龍溪語録』巻三・金波晤言。廣文書局p113)
とも言っており、呉敬梓の言い方はやや大げさな感を免れえない。
呉敬梓は、以上述べたように眞の儒を希求したからこそ、「深く禮教の虚偽を見極め、禮教の虚偽を痛み、禮教の虚偽を暴露しえたのである。そこで、呉敬梓は、儒林外史中で范進がしきたりを守ってかたくなにも象牙の箸さえも取ろうとせずにおきながら、燕の巣のえび団子を大食いしたという似非道学者の面を描き出し、荀?が進士となるのを遅らすのを気乗りしないために母親の葬儀を隠蔽しようとした士大夫の孝の内の事情を浮き彫りにし、王玉輝が大笑いしながら女兒が餓死して節操を守るのを勧めて、事後はじめて心痛むのをおぼえ悲しみおそれて神経が異常になったという禮教と良心の衝突する心の内の矛盾などをさらけ出すことができたのである。」(……才能深切認穿禮教的虚偽、痛恨禮教的虚偽、暴露禮教的虚偽。呉敬梓所以才能在儒林外史中、勾勒出范進『遵制丁憂』時拘謹得連象牙?也不肯用、但却大吃其燕窩蝦元的假道學的面孔(第四回)、刻畫出荀?爲了不肯耽誤作官而企圖隠瞞母親的喪事的士大夫『孝』的内幕(第七回)、掲露出王玉輝大笑着鼓勵女児餓死殉節、而事後轉覺傷心、悽悽惶惶地神経失常的禮教和良心衝突的内心矛盾等等。『論儒林外史』何滿子・上海出版・1955p20より)
儒林外史の中で親孝行の場面(例えば十七回の匡超人が格好の例)、あるいは親の死後の息子の行状を叙述した部分はかなり多い。そこに描かれているのは、それこそ篤実とも言うべき類型に近いと言えよう。しかいうものの周進(二回)や范進(四回)が物忌みや忌中の身でありながら周囲の誘いに抗しきれず権謀を行い良心の呵責から免れえたことは、呉敬梓の禮教の眞虚に對する洞察の上では好ましい事柄として描かれていると考えて誤りはそうないだろう。ただ、読む者はややもすると、その滑稽な筆運びに惑わされて見過ごしてしまうであろう。
●あとがきーこれは十数年前に書かれた『儒林外史』という小説の演習授業課題感想文です。今読むと、もっと突っ込みがあってもよかったとは思いますが、今から改めて『儒林外史』を考察するには「日暮れて道遠し」の状況なので何か機会のない限り『儒林外史』に関する本とともに「積読(つんどく)」ままにしておきます。
秦・漢の文献批判 『考信録』から 2000 3月12日記 田中
崔述(1740~1816)は清朝時の學者で古史研究について優れた業績を殘した人物です。近年になって再評価されるようになりました。以下は演習時の配布資料です。テキストは顧頡剛編訂『崔東壁遺書』上海古籍出版社の一冊本に據りました。
【原文】ー劉知幾用『左傳』駁秦漢之書
近世淺學之士、動謂、「秦漢之書、近古。其言、皆有據所。」見有駁其失者、必攘臂而争之。此無他。但其名而實未嘗多觀秦漢之書。故妄爲是言。劉知幾『史通』云、
秦漢之世、『左氏』未行。遂使五経、雜史、百家諸子、其言河漢、無所遵憑。故其記事、當晉景行覇、公室方強、而云、「韓氏攻趙。有程嬰・杵臼之事。」子罕國相。宋睦於晉、而云、「晉將伐宋、覘其哭於陽門介夫。」其記時也、秦穆、居春秋之始、而云、「其女、爲荊昭之夫人。」韓・魏、處戰國之時、而云、「其君陪楚之荘王葬焉。」列子之書、論尼父云、「生在鄭穆之年。」扁鵲、醫療ー公、而云、「時當趙簡子之日。」欒書仕於周子、而云、「以晉文如獵、犯顔直言。」荀息死於奚齊、而云、「覯晉霊作臺。累碁申誡。」或以先爲後、或以後爲先。日月顛倒、上下翻覆。古来之君子、曾無所疑。及『左氏』既行、其失自顯。
由是論之、秦漢書、其不可據以爲實者多矣。特此未有如知幾者肯詳考而精辨之。顧、吾猶有異者。知幾於秦漢之書、紀春秋之事、考之詳、而辨之精如是。至於虞・夏・商・周之事、乃又采ヌ百家雜史之文而疑經者何哉。夫自春秋之世、下去西漢僅數百年、其舛誤乖剌已累累若此。况文・武之代、去西漢千有餘年。唐虞之際、去西漢二千有餘年。即去戰國亦二千年、則其舛誤乖剌必更加於春秋之世數倍可知也。但古史不存於世。無左傳一書證其是非耳。豈得遂信爲實乎。故今爲考信録、於殷・周以前事、但以詩・書爲據、而不敢以秦漢之書遂爲實録、亦推廣『史通』之意也。(考信録提要巻上p6)
【訓読】 近世の淺學の士、動もすれば謂らく、「秦漢の書は、古に近し。其の言は、皆據る所有り。」と。其の失有るを駁する者有るを見れば、必ず臂を攘げて之を争ふ。此れ他無し。但だ其の名をめて實は未だ嘗て多くは秦漢の書を觀ず。故に妄りに是れが言を爲すのみ。劉知幾『史通』に云はく、
秦漢の世、『左氏』未だ行なはれず。遂に五經、雜史、百家諸子をして其の言、河漢にして遵憑する所無からしむ。故に其の事を記するや、晉景の覇を行なひて公室方強なるに當たりて云はく、「韓氏趙を攻む。程嬰・杵臼の事有り。」と。子罕國に相たり。宋、晉に睦じくして云はく、「晉、將に宋を伐たんとして、其の陽門の介夫に哭するを覘ふ。」と。其の時を記するや、秦穆、春秋の始めに居りて云はく、「其の女、荊昭の夫人たり。」と。韓・魏、戰國の時に處りて云はく、「其の君楚の荘王に陪して葬る。」と。列子の書、尼父を論じて云はく、「生は鄭の穆の年に在り。」と。扁鵲、ー公を醫療して云はく、「時、趙の簡子の日に當たる。」と。欒書、周子に仕へて云はく、「晉文、獵に如くを以て、犯顔直言す。」と。荀息、奚齊に死して云はく、「晉霊の臺を作るを覯る。碁を累ねて誡を申ぶ。」と。或ひは先を以て後と爲し、或いは後を以て先と爲す。日月顛倒し、上下翻覆す。古来の君子、曾て疑ふ所無し。『左氏』の既に行はるるに及びて、其の失自ら顯る。
是に由りて之を論ずれば、秦漢の書、其の據りて以て實と爲すべからざる者多し。特だ此れ未だ知幾の如き者の肯て詳考し之を精辨する者有らざるのみ。顧だ、吾猶ほ異とする者有り。知幾、秦漢の書、春秋の事を紀すに於いて、之を考ふること詳らかにして、之を辨ずること精しきこと是くの如し。虞・夏・商・周の事に至りては乃ち又百家雜史の文を采ヌして經を疑ふ者は何ぞや。夫れ春秋の世より下りて西漢まで去るに僅か數百年にして、其の舛誤乖剌するもの已に累累として此くの若し。况んや文・武の代、西漢を去ること千有餘年。唐虞の際、西漢を去ること二千有餘年なり。即ち戰國を去ることも亦二千年なれば、則ち其の舛誤乖剌すること必ず更に春秋の世に加ふること數倍なるを知るべし。但だ古史世に存せず。左傳の一書の其の是非を證すること無きのみ。豈に得て遂に信じて實と爲さんや。故に今、考信録を爲るに、殷・周より以前の事は、但だ詩・書を以て據と爲し、敢て秦漢の書を以て遂に實録と爲さざるも、亦『史通』の意を推廣するなり。
関連年表 |
唐 堯
虞 舜
夏
殷=商 |
周
文王
武王(BC1066〜)
春秋(770〜)
秦穆(659〜621)
晉文(636〜628)
鄭穆(627〜606)
晉霊(620〜607)
楚荘(613〜591)
晉景(599〜581)
周子(572〜558)
左丘明(?〜?)
尼父(551〜479)
荊昭(515〜489)
趙簡(?〜477)
戰國(403〜)
列子(?〜375)
韓・魏 |
| 秦(221〜) |
漢=西漢(202〜)
漢=東漢(25〜)
魏(220〜280)
西晉(265〜316)
左傳の流布
|
【通釋】 近世の淺學の士は、とかく「秦・漢の書物は、昔に近いので、その書物の中の言葉には、皆據り所がある。」と思っており、秦・漢の書物の誤りを非難する者がいるのを目にすると、必ず腕を捲くって論争する。これは、他でもなく、ただ名声を求めて、その實(その本人は)まだそんなに秦・漢の書物をみくらべていないまでである。だから、やたらこのようなことを言うだけである。劉知幾の『史通』には、こう言っている。
秦・漢の時には、『春秋左氏傳』は、流布していなかった。(西脇常記訳『史通内篇』では、「もてはやされる事はなかった。」とある。そのニュアンスに近い。)そこで、そのまま五經や體裁の整っていない歴史書や諸子百家を使った。秦漢の時の文は、とりとめもなく、據り所のないものであった。だから、その秦・漢の書が、事柄を記述する際、折しも晉の景公が力で権力を取り、その権力が強大であった時にもかかわらず、「韓氏が趙を攻めた。程嬰や杵臼の事柄がある。」と言っている。子罕が、宋の國の宰相であり、宋は晉に友好的であった。それにもかかわらず、「晉が宋を伐とうとして、間諜は、子罕が陽門の衞士の死を哭しているのを偵察した。」と言っている。(また)秦漢の書が、時期を記述する際、秦の穆公が春秋の始めにいた。それにもかかわらず、「穆公の娘は、j昭の夫人であった。」と言っている。韓・魏という國は戰國時代にあった。それにもかかわらず、「韓・魏の君主が、楚の荘王の馬を葬るのに付き添った。」と言っている。『列子』の書は、尼父を論じている。それにもかかわらず、「列子の生れは、鄭の穆公の時である。」と言っている。扁鵲は、ー公を治療した。それにもかかわらず、「その時は趙の簡子の日時に當たる。」と言っている。欒書は、周子に仕えた。それにもかかわらず、「晉の文公が獵に行き、欒書が無禮を承知で諌め、直言した。」と言っている。荀息は奚齊の後を追い殉死した。それにもかかわらず、「晉霊が臺を造り、碁板を重ね誡めの言葉を述べた。」と言っている。一方では先の事を後にし、一方では、後の事を先にしている。時期が逆さまで、順序がひっくりかえっている。昔から今まで君子は、それについて疑おうとした事はなかった。『左傳』が流布するようになって、その誤りが自然とはっきり分かるようになった。
これらから論じてみると、秦漢の書は、それを據り所にして眞實とすることのできないものが多い。但だ、劉知幾のように、あえて詳細に考察し、精密に辨別する人がいなかっただけである。(しかし)振り返って考えると、私にはまだしっくりこないものが有る。劉知幾は、秦漢の書が春秋時代の事を記述しているのについて、(かくも)考察する事が詳細で辨別する事が精密であるのに、虞・夏・周の事については、なんと更に諸子百家や雜史の文献を取り集めて經典を疑おうとするのは、どういうことか。そもそも、春秋の世から西漢まで下るのに數百年もの月日がある。その西漢の文献の誤りは、すでに今見たようにおびただしい。まして、周の文王・武王の世が西漢から離れているのは、千年以上である。唐・虞の時代が、西漢から離れているのは二千年以上である。もし、戰國時代からも二千年離れているとすると、その誤りは必ず春秋時代のものの數倍であろう事は、理解できる。但だ、古史が存在していないので、『春秋』の一書がその戰國時代の文献の是非を證明すると言う事がないだけである。どうして、そのまま信じて眞實と考えられようか。だから、今、考信録を書く上で、殷周以前の事は、但だ詩・書を據り所とし、あえて秦漢の書を實際(の帝王一代)の記録と考えるような事はしない。これも、また『史通』の考えを押し廣げたものである。
【語釋】 ○『史通』 唐の劉知幾の著。中國で最初の歴史理論書。清代の章學誠の『文史通義』とともに歴史理論書の双璧とされる。今回の該當個所は、巻十四p18,b(四部備要)○雜史 『隋書』經籍志に始まる語で、紀傳・編年・紀事本末などなく體裁の整っていない歴史書。○百家諸子 春秋・戰國時代に輩出した思想家たちの総稱。「諸子百家」の語は、『史記』賈諠傳に「賈生年少、頗通諸子百家之書。」○河漢 「河漢之言」で「とりとめのない言葉」の意味。○攘臂 腕まくりする。勇奮する。(孟子・盡心下・『韓非子』外儲説にある「攘肱」と同義。)○公室 君主の家。また、その政権。○介夫 甲冑をつけた衞士。○欒書 春秋時代の晉の大夫。晉の前の君主を殺し、悼公を立てた。○周子 晉の悼公○扁鵲 黄帝の時の名醫。後、戰國時代の秦越人という名醫も扁鵲と呼ばれた。○趙簡子 趙鞅のこと。春秋末の晉の卿。後の趙の國の礎を築いた。○乖剌 そむきもとること。(楚辞・東方朔・七諌・怨世)○尼父 孔子の尊稱。○犯顔 君主が嫌な顔をしても、構わずに諌めること。○翻覆 ひっくりかえる ○唐虞之際 唐虞とは、堯(姓は陶唐氏)と舜(姓は有虞氏)のこと。『論語』泰伯に「唐虞之際、於斯爲盛」(「際」を「下」劉寶南、「交會之間」孔安國と解する説あり。)とある。○無左傳… 存現述語文「這里有人帶着一個孩子」のような現代中國語の用法と同じ。○實録 ある帝王一代のことを年代順に記した歴史書。
【余説】 まず、崔述が言う「近世の淺學の士」とは、誰を、或いはどの學派を指すのか。今後の問題である。次に、『春秋左氏傳』の成立・流布に関しての記述については、『隋書』經籍志に「左氏、漢初出於張蒼之家、本無傳者。至文帝時、梁太傅賈諠爲訓詁…其後劉典考經籍…欲立於學…賈逵・服虔並爲訓解。至於魏、遂行於世。晉時、杜預又爲經傳集解。」とある。經籍志では少なくとも、『左傳』の流布の時期を、西晉の杜預が『經傳集解』を著した前の三國時代の魏(220〜280)以後と考えている。一方、『史通』では、「春秋左氏、三傳之雄覇也。而自秦至晉、年逾五百、其書隠没、不行於世。…杜侯訓釋、然後見重一時、擅名千古。」(七巻・鑑識篇)とあり、『左傳』の流布を晉を含めた以後からと考えようとしている。
崔述は、何を根據として、堯舜などの傳説時代の推定年代を算出しえたのだろうか。崔述は單に概數を述べているに過ぎないのだろうか。今、参考になる文献として『韓非子』顯學篇に「殷・周七百余歳、虞・夏二千余歳…今乃欲審堯舜之道於三千歳之前」とある。顯學篇は、韓非子の直筆とされているので、戰國時代には、もうこのような概算がなされていたのであろう。
【資料】 『史通通釋』の體裁に依據した。
其言河漢 〔荘子・逍遥遊〕吾聞言於接輿、吾驚怖其言、猶河漢而無レ極也。
晉覇 屠岸 此言國未失覇、不應有権臣擅攻事也。〔宣十二年〕晉荀林父帥師、及楚戰於S、敗績。歸、請死。士貞子曰、「林父、社稷之衞也。其敗何損。」晉侯使復其位。〔杜注〕言晉景所以不失覇。〔按〕是歳晉景公三年也。〔史記・趙世家〕晉景公之三年、大夫屠岸賈不請而擅攻趙氏於下宮。殺趙朔、滅共族。朔妻成公妹走公宮、生男。賈聞之、索於宮中不得。程嬰公孫杵臼謀匿趙孤。
睦晉 覘哭 此據弭兵修睦之文。見覘・伐、非情也。〔襄二十七〕宋向戌善於趙文子。又善於令尹子文。欲弭諸侯之兵以爲名。如晉。告趙孟韓宣子、曰、「兵、民之殘也。將或弭之、必許之。」〔按〕是時宋子罕方爲司城。〔禮檀弓〕陽門之介夫死。司城子罕入而哭之哀。晉人之覘宋者、反報於平侯、曰、「民悦、殆不可伐也。」
○向戌 宋の大夫○趙文子 晉の大夫。趙孟のこと。○令尹子文 令尹子木の誤記。令尹子木は、楚の大夫。屈建のこと。○韓宣子 晉の大夫。韓起のこと。○司城 周代の土地・人民をつかさどった官名。
秦穆 j平 此言一前一後、年不相及。〔僖十〕晉乞糴於秦〔十五〕晉侯與秦伯、戰於韓原。〔文〕秦伯伐晉、遂覇西戎。用孟明也。〔按〕秦穆見春秋魯僖・文之交。〔列女傳〕伯贏者秦穆公之女。楚平王之夫人。昭王之母也。昭王時、呉入郢。王亡。呉盡妻其后宮。伯贏持刀曰、「諸侯外淫者絶、卿大夫放、士庶人宮割。妾以死守。欲爲楽而妾死、何益。呉王慙、遂退舎。
○糴 かいよね。買い入れた穀物○『列女傳』該當個所は、巻四p五裏。○郢 楚の都○平王 昭王の前の在位者で在位期間は、BC,528〜516。○僖公・文公の在位期間は、それぞれBC659〜627、BC626〜609。
韓魏 楚荘 此言一後一前、事不相及。〔按〕左傳盡魯悼之四年。其文云、「知伯貪而愎。韓・魏反而喪之。」是先事究言之文。〔滑稽傳〕優孟者、故楚之楽人也。楚荘王有所愛馬死。欲以大夫禮葬之。優孟曰、「薄。請以人君禮葬之。齊・趙陪位於前。韓・魏翼衞其後。」〔裴o注〕楚荘時、未有韓・魏・趙三國。
○知伯 名は瑶。もと晉の大夫。独立した國を建てようとして死んだ。知伯の話は、『戰國策』『史記』『韓非子』などにも見られる。なお、知伯の「貪愎」については、『韓非子』十過に詳しい。○貪而愎 貪とは欲が強いこと。愎とは、片意地。ずぶといこと。○翼衞 脇から助けて守る。
列子 鄭穆 此言列生於尼父後。稱鄭穆年、非也。〔哀十六〕夏四月已丑孔某卒。〔注〕魯襄公二十二年至今、七十三也。〔列子・天瑞篇〕孔子見榮啓期行乎之野。鹿裘帶索、鼓琴而歌。又有仲尼名篇。蓋其書舉孔子者、非一。〔劉向・諸子略〕所校列子、定著八篇。皆殺青。書列子者、鄭人也。與鄭繆公、同時。蓋有道者也。〔按〕左傳穆公有疾。刈蘭而卒。在宣三年。又五十五年始有孔子。豈書稱孔子者人反在前乎。
○哀十六 前・四百七十九年○堰@春秋時代の鄭の地。或いは、國名で周の武王が弟の叔武を封じた國。『釋文』では、「魯邑名」と言っている。『列子集釋』で、楊伯峻は、「本々、國名で、周の武王が弟の叔武をここに封じた。春秋の時は、魯に属しており、孟氏の邑であった。今の山東省…」と言う。○殺青 竹を火であぶって、字を書きやすく、腐りにくくしたこと。○『諸子略』 漢の劉の著『七略』の中の分類の一つ。諸子百家の概要を述べたもの。
ー公 簡子 此言ー亡於趙簡前、活太子事、妄也。〔僖五〕晉公復假道於虞、以伐ー。十二月丙子朔、晉滅ー。〔春秋諸國興廢説〕虞・ー紀不録、倶早亡。〔扁鵲傳〕趙簡子疾。五日不知人。召扁鵲。扁鵲入。視病、出曰、「血脈治也。」居二日半、簡子寤。其後、過ー。ー太子死。扁鵲曰、「臣能生之。」ー君聞之、出曰、「幸而舉之。」扁鵲手I砥石以取外陽五會。太子蘇。〔按〕簡子、趙鞅也。春秋定哀間人。于時、ー亡久矣。
○血脈治 治とは、滞のこと。(會注考證)○幸而舉之 舉は、蘇のこと。○陽五會 陽とは、手足にある陽のつぼ。五會とは、五臓にあるつぼ。
欒書 晉文 此言本國後世之臣、誤移前世。〔成四〕晉欒書、將中軍。〔六年〕欒書救鄭、侵蔡。楚救蔡。趙同・趙括欲戰、請於武子。〔注〕武子、欒書。〔按〕在晉景年。〔新書・雜事〕晉文公逐麋而失之。問農夫老古。老古曰、「一不意、人君如此也。君放不歸、人將君之。」文公恐。歸遇欒武子。武子曰、「獵得獣乎。」曰、「得善言。」曰、「取人之善而棄其身、盗也。」文公還載老古、與倶歸。〔按〕文公、景公之祖。
○中軍 諸侯の軍(軍・中軍・軍)の中、最も精鋭で大將自らが指揮する軍隊。○『新書』 春秋時代から戰國時代までの説話集。劉向の編。○晉景 在位期間は、BC599〜581○麋 なれしか。
荀息 晉霊 此言本國前世之臣、誤移後代。〔僖九〕晉献公使荀息傅奚齊。及公卒、里克殺奚齊于次。又殺公子卓于朝。荀息死之。〔文選・西征賦注〕説苑云、晉霊公造九層之臺。孫息上書求見曰、「臣能累十二博碁、加九鶏子其上。」公曰、「危哉。」息曰、「復有危於此者。公即壊九層之臺。」〔按〕孫息即荀息。避宣帝諱、改孫也。〔又按〕今本説苑無此条。史云、知幾子?著續説苑、廣向所遺而刊落怪妄。今豈其刊本邪。又曾鞏序更有不全之説。見雜説注。〔晉世家〕霊公、献公曾孫
○晉献公 在位期間は、BC626〜651。なお、僖公九年は、651年。○荀息 晉の大夫。○奚齊 晉の献公の子。○里克 晉の大夫。○次 喪屋(ヤ)○卓 晉の献公の子。○西征賦 李善注本では、魏都賦・巻六p19○『説苑』 漢代までの説話集。劉向が、佚本『説苑雜事』をもとに取捨選択・増補したもの。○史 新東書・巻132に見える。○宣帝 漢の宣帝・劉詢のことか。○刊落 切り落とすこと
【参考文献】
『史通釋評』清ー蒲起龍釋・民國ー呂思勉評・華星出版社・1975
『史通内篇』西脇經夫・東海大學出版會
『史通ー唐代の歴史觀』増井經夫著・平凡社(研文にもあり)
『新書今注今釋』盧元駿注釋・臺湾商務印
『劉向新書』公田錬太郎訳注・東明書院
『説苑校證』向宗魯校證・中華書局
『説苑疏證』趙善詒疏證・華東師範大學出版會
2 四書の讀み方について 田中 2000 2.16記
四書とは『大學』・『中庸』・『論語』・『孟子』のことで、五經とあわせて四書五経とよばれているものです。その四書五経の書名について人によっていろいろ覚え方がありましょうが、私の場合「大・中・論・孟・易・詩・書・禮・春」(ダイチュウロンモウ……)という順で語呂合わせもないまま記憶しています。これで不自由はないのですが、その四書の讀むべき順序というのが朱子によって提示されています。これは程伊川の、四書を六經に先行して讀むべしという説を発展させたものです。朱子は次のように言います。
讀書、且從易曉易解處去讀。如大學中庸語孟四書、道理粲然。人只是不去看。若理會得此四書、何書不可讀。何理不可究。何事不可處。蓋卿。(『朱子語類』十四)
本を讀むには先ず理解しやすいところから讀みなさい。『大學』・『中庸』・『孟子』・『論語』は道理がはっきりしている。人はただ讀もうとしないだけだ。もしこの四書を理解できたらどんな本でも讀める。どんな理でも究められる。どんなことでも對處できる。蓋卿の録。
やや大げさな表現に見えますが、ここで「大學中庸語孟」と表現される書の讀むべき順序を「大學・孟子・論語・中庸」と朱子は定めます。何故かは、
某要人先讀大學、以定其規模、次讀論語、以立其根本、次讀孟子、以觀其發越。次讀中庸、以求古人之微妙處。……寓。
私は、人が『大學』を先ず讀んで學問の規模をつかみ、次に『論語』を讀んで根本を立て、次に『孟子』を讀んでその発展するところを見て取り、次に『中庸』を讀んで古人の學の微妙なところを探り求めるようにして欲しい。……寓の録。
のように言いますが、この片言では分かりづらいので市川安司氏の考察を次に引用します。
「大學によって綱領を知り、それが實生活のうちでいかに行なわれたかを論語によって知り、その理論的展開として孟子が選ばれ、綜合的な意味において中庸が末尾に置かれたと見てよい。」(二松學舎大學・東洋學研究所集刊・第2集1971)
つまり、『大學』の冒頭により儒學の意図・方向付けをわきまえ、その実踐方法の例を孔子の言行録である『論語』によって體得し、実踐する上での理論を『孟子』によって理解し更なる進歩を遂げさせ、『中庸』によってまた微妙な對処の仕方を理解させ學を練り上げようということです。
●あとがきーこれは中國学の常識を原典も載せて説明したノートです。電子版『四書』が完成したので改めて恩師・市川安司先生の論文を読み直し備忘録風に簡潔に記したものです。解釈も先生のものを大いに参考にさせていただきました。先生には、『孟子』・『近思録』・『大学或問』・『北渓字義』など学生時代にお教えいただいたことがあり、厳密な體を要する論文も謦咳に接した者にとっては分かりやすく、また懐かしく思えました。
1 教育における子供の人権保障の意義ー教育学課題文 田中 2000 2.6記
「子供は、人間ではない。」(『愛と情念に関する説』)とは、増尾輝久著『子供の権利とは何か』p21に引くパスカルの語である。『愛と情念に関する説』は、パスカルの親筆でないという考証もあるらしいが(『パスカル』前田陽一・中公新書p36参照)、パスカルは、言う。
人の生は、あわれにも短い。人は、その生をこの世に生れてきた最初の年から数える。しかし、私は、理性が誕生し、理性によって人が動かされる時からしか数えたくない。それは、普通二十歳以前には起こらないものである。この時期以前には、大人は、子供である。子供は、人間ではない。
と。これらから分かるとおり、パスカルは、決して子供自身に敵愾心を持っていたのではない。非難の矛先は、むしろ、外づらだけ大人で、理性を欠く者たちに向けられているのであろう。これは、彼の有名な次の文句と共に考え合わされるべきものである。
人間は、一茎の葦である。それは、自然の中で最も弱いものである。しかし、それは、考える葦である。
L'homme n'est qu'un roseau ,le plus faible de la nature ;mais c'est un roseau pensant. (『Pences』)
つまり、パスカルは、人間として、理性に従って思考することのいかに重要なのかを説いたのである。「子供は、人間ではない。」とは、よく引用される文句であるが、パスカルのこの片言を以て断章取義的に子供の虐待が哲学史上公認されていた、などと速断されてはなるまい。
さて、「子供の権利条約」成立までの経過を簡単に振り返ってみる。第一次世界大戦の惨状を目前にし反省した国際連盟は、1924年「子供の権利に関するジュネーブ宣言」を発表し、第二次大戦後、国際連合は、1948年「世界人権宣言」を採択し、以後
1951年……「児童憲章」
1951年……「児童憲章」
1959年……「子供の権利宣言」
1985年……「学習権利宣言」
などが出され、1989年11月20日、国連総会において「子供の権利条約」が採決されたのである。
それでは、この「子供の権利条約」の成立を促した要因は何か。無論、戦争後の惨状を遠因としてて考案されたことは間違いない。『子供の権利条約を読む』では、「子供の権利条約」の成立には、地球汚染が関与していると指摘している。地球汚染には、物質的なものと、北と南との格差に見られる地球汚染、そして内面汚染などがあるという。物質的な地球汚染とは、核爆弾によってもたらされる放射能汚染を筆頭に、酸性雨・砂漠化の進行などが挙げられる。北と南との格差に見られる地球汚染とは、北側の先進国と南側の第三世界との社会的・経済的生活水準の格差を指す。内面汚染とは、北側の先進国に見られる「人権の腐敗」と、南側に見られる「人権を収奪する紛争と窮乏」を指す。当該の条約は、これら病める国々の根底からの革新を促すものと言えよう。
「子供の権利条約」の28条に
States Party recognize the right of the child to education…….(Convention on the Right of the Child)
と言う。この句について『教育基本法をどう読むか』p21では、教育の権利は、本来「教育を受ける権利」などという消極的なものではなく、英語で
right to education(仏訳droit a l education)
と言うように、より積極的な意味合いの「教育への権利」と捕らえられるべきであるとしている。もし、このような積極的な見地から教育というものが、見直されるなら、民主主義思想をより確固たるものにする一つの契機ともなりうるのである。
「受ける」だけの教育では、自主性が育ちがたい。私は、予備校・塾の講師をしているが、生徒をある教科に集中させるには、「待つ」という技術が必要であると思う。教師側が、一方的にしゃべりまくるというのではなく、時間内に演習の時間を設け、講義した内容を、生徒側に定着させるべく生徒に考える時間を与えるのである。もちろん生徒には、教師のような判断力・思考力はまだ育っていない。それを、自分の尺度で計り、子供をせかすようでは、反発心を起こさせるだけである。教師側の自制心の弱さと、生徒側の反発心とは、ほぼ比例しているとまでは断言できないが関連があると考えられる。
教育と学ぶこととは、よく言われるように表裏一体の関係にある。教えていて、教師側が学ぶこともある。中国の漢代に成立した周以来の礼法解説の集大成である『礼記』には、
雖有嘉肴、弗食、不知其旨也。雖有至道、弗学、不知其善也。是故学、然後知不足。教、然後知困。知不足、然後能自反也。知困、然後能自強也。故曰、教学、相長。(『礼記』学記)
たとえよいさかながあつても、食べなければその味が分からない。たとえ優れた道があっても、学ばねばその良さが分からない。こういうわけで、学んではじめて自分の勉強不足に気づき、教えてはじめてその困難さが分かる。自分の勉強不足に気づき、はじめて反省し、教えることの困難さが分かって、はじめて自分で努力する。だから、こう言うのである。「教えることと学ぶこととは、相い補って伸びるものだ。」と。
と言い、また
教学半。(『礼記』学記篇)
教えることは、半ば自分の勉強にもなる。
とも言っている。つまり、人を教えることによって、自分の学問も出来上がっていくのである。教師側にこの自覚があれば、教育の荒廃をもたらす原因の一つである教師側の驕慢は、自然なくなる方向に趣くであろう。要は、生徒の資質に応じた教育を施すことにあるとも思われる。
「教育への権利」というのは、以述のように生徒側の積極的な教育への参加を促すばかりでなく、民主主義思想・人権思想そのものを支える重要なものにもなりうる。生徒が、このような思想を体現したなら社会に大いに貢献するであろう。『子供の権利条約を読む』p6に、国連事務次長の発言を引用している。彼は言う。
(子供の権利条約の採決は、)人間に諸権利をいっそう豊かにするうえで、国際社会にとってももっともねうちのある成果だ。
と。当該の条約は、権力への盲従・権力者側の勝手な洗脳・思想操作を防ぐ役目を担っており、戦争の回避の役目をも兼ね具えるものであろう。『子供の権利とは何か』P55にも、国連事務次長の発言を受けて、
子供の権利は、人権思想の基底にあって、人権思想そのものの内実をゆたかにする……観点になっていく。
と言っている。
『子供の権利条約を読む』p47 に
学習権は、人類の生存にとって欠くことのできない手段である。
と言っているのも、これらの脈絡でも解されるべきものであろう。1985年に発表された「学習権利宣言」は、大人も対象として含むものであるが、学ぶのに最もふさわしく、柔軟な頭脳を持つ時期にある子供の権利充足の役目をも担っているのである。
【課題図書】
『子供の権利条約を読む』太田堯・岩波ブックレット
『子供の権利とは何か』堀尾輝久・岩波ブックレット
『教育基本法をどう読むか』堀尾輝久・岩波ブックレット
【参考文献】
『新教育学大事典・資料篇』第一法規出版社・1990/p584〜591
『パスカル』前田陽一・中公新書・1971
『愛の無常について』亀井勝一郎
●あとがきーこれは受講した教育学で課題図書として上の三書を読んで思ったところを述べよという夏休み課題です。十年近く前のものですが、今でも「子供の権利」ついての議論は盛んですね。全体的に目新しい論点はありませんが、『禮記』の記述の部分が何か参考になればと思います。
教えるべきか、発憤を待って教えざるべきか 田中 2000 1.27記
以前、新聞を読んで考えさせられましたが、今の高校の教師が高校生を教える時には、あたかも食べ物を口元に運ぶかのようにしなければ生徒は理解しようとしないとありました。
私自身塾講師としての経験を持っていて、成績が伸びない理由について生徒側の言い訳は学校の授業についていけない、興味を持てない、学校の先生と馬が合わない、感情的・生理的に先生との時間・空間を共有したくないなど、さまざまでした。それこそ教育心理学のテキストに詳説されていないものです。これは他人を意識し自我を意識しアイデンティティ確立しようとする時に現れる葛藤によってもたらされた現象と考えられますが、おおよその人はそのような感情に惑わされ反抗的態度に染まった時期があるのでしょう。この時期をどのように乗り越えるかは各人の資質・環境によって様々でしょう。未熟・不安定な精神状態にある生徒側は自己の主張をとかく正当化しようとします。ただ教える側はそのわがままを助長させることないよう適切に対処せねばなりません。
かつての日本は学歴・偏差値が一番とばかり人間性を損なってまで生徒を追い立てた観があります。目標へ近づけさせようという思い入れが体罰の容認となり、それに対する反省・反動に起因するのか校内暴力が日常茶飯事になった時期もありました。情念によって支配されている精神的に半ば白紙状態の生徒を社会的認知のない方向へは導きがたい。かといって、その生徒の資質にあった方向に導こうとするには、今の日本職種に対する貴賎感覚が全くなくなったわけでもなく、他方少子化によって一部の教育機関は生き残りに専念しようとしている面もあり、また、その子の両親の受験当時の状況とはかなり様相が変わっており親の助言・要望はかえって子供を混乱に陥れてしまう場合もあり問題を複雑にしています。
学歴が上がればそれにつれて生活が安定するというのは、もはや過去の話であり、日本人それぞれが日々世界の政治体制・経済の趨勢に影響を被る中では、かつて社会的認知を確実に得た職種もこの価値観の流動の中では定位置を保ちがたくなっています。勢い、老後のことまでを考え財産を多く貯めるか、個人的に限界を諦観した上で自分なりの満足を得ることにするかの二極化ともなりえません。
さて、日本に住み続ける以上、価値観の流動などは毎年変わるファッションの変動と同じであり、日本人には何故かそのような変動を受け入れる体質ができあがっているとして話を戻すと、高学歴で収入が多く安定している人はほんのわずかです。高学歴の人は毎年生産されているわけであり今ではかつてのように一握りの存在でもなく、旧帝大の卒業者が未だこの日本の枢軸を牛耳っているわけでもありません。学問することは立身出世の必須条件ですが、学問することが必ずしも経済的富裕ともともと直結しているわけではありません。
では、何のために学問が必要なのでしょうか。一口に学問と言っても社会を理論的にとらえあるべき様を想定する社会学・経済学、日常に見られる現象を解析する物理学・数学その他多岐にわたっており、また一個人ではすべてを考究・修得しうるものではなくなってしまいました。伝統的な倫理説に立った上でのものですが、学問は昔から言われているとおり自分自身を高めるためです。あるいは、公を利するためのものです。学問の領域によって性格上一方のみに偏ったり、両者を包摂するものがありますが、学問を皆が尊ぶ理由もここにあります。
学問修得には、記憶力・理解の速さが要求されます。特に高校卒業後、あるいはその後数年間のうちに大学進学をするのが常識となっている日本では、大学が課す入試問題を解く上での知識量がほとんど絶対的価値を持っているのですが、記憶されただけの受け売りの空学問は何の効力をも発揮し得ないのに、合格した本人は高学歴を得たことを誇りとし学問の存在理由を疎かにしてしまう傾向がないともいえない状況になっています。現在、有名大学であるからということで、その人物を評価することを疑問視する企業が増えてきたことは、楽観的に言えばこのような弊害に対処するためとも思われます。何よりも学問をしたからには判断力を求められるものだからでしょう。
それでは、どうすればいいのかという具体的な方策を立てるのがこのコラムの趣意ではなく、意識改革を促すことに主眼を置いています。つまり、過度の生徒に対する心入れは生徒側の思い上がりの助長、あるいは、自立心・判断力の減衰につながりかねないのではないかと思うのです。
教えることが教師の職務ですが、逆に教えないことも教師が判断する職務の一つと考えます。孟子は次のように言います。
孟子曰、「教亦多術矣。予不屑之教誨也者、是亦教誨之而已矣。」(告子下・16)
孟子は言われた。「教え方にはいろいろある。私が教えずに拒絶するのも、自省を促すためであって、これも教えることに他ならない。」と。(解釈は朱子注に拠る。)
【資料】
○子曰、「不憤不啓、不モ不發。擧一隅、不以三隅反、則不復也。」(『論語』述而・8)
○孟子曰、「可以取、可以無取、取傷廉。可以與、可以無與、與傷惠。可以死、可以無死、死傷勇。」(『孟子』離婁下・23)
○You can lead a horse to(the) water but you can't make him drink. 《ことわざ》馬を水辺に連れていくことは簡単だが、水を飲ませることは不可能だ。良い指摘をすることは簡単だが、それを実行させることはむずかしい。ーBookShelfより
三島由紀夫「行動学としての陽明学」を読んで 1999 12月4日記
まず、陽明学者という言葉が陽明の残した言行を手がかりにして陽明の希求した儒学の原初的な倫理思想を体得しえた者とするなら、私はその域に近づこうとしても及びえない者です。日本語では、例えば数学・物理学・法学・人類学・人間学のように「……学」という言い方がありますが、数学なら数の性質にいて理解しそれを身につけようとする学問のことで、陽明学という日本独特と思われる語も陽明の思想について理解しそれを身につけようとする学問のことです。ただ、他の教科と同じように分類された名称のためもあって、「……学」と命名されたものには何か他と異なった独自なものがあるという印象が先行して、困ったことにその印象が誇大化され一人歩きし、それが世間の理解する常識となっている場合があります。朱子学も儒学の一派という理解より、本当は朱子が道教・仏教に対抗しまた優位を保ちえるよう原初的な儒学の理論・精神を彼なりに構築し直したものであって、彼は原初的な儒学の否定逸脱を志向したものではないと理解されるべきものでしょう。革命思想を是とした孟子はかなり後になって儒学者として扱われるようになったようにどこまでが儒学としての許容範囲か時代によってまちまちであることも留意しておくべきことでしょう。
さて、陽明学についてですが、陽明思想を学んだ誰々によって一揆がおこり、明治維新機運醸成に功績があったという一般的理解によってはどうしても、陽明学に対する印象は一方的に偏ってとらえられがちになります。陽明学なかんずく儒学は本来指導者養成の性質を濃く保持するものであって、東洋仏教のように戒律はたててなく全ての人にその精神・項目を完全な形で理解・体得するのを要求はしない性質のものであることも忘れてはならないでしょう。陽明自身、軍人として多忙な日々を過ごしたため朱子のような理論的な学説を残せなかったというレッテルを貼られもするのですが、彼の考える世界観・人間の精神に対する理論付けは実に簡潔なのです。現代心理学を凌駕する学説とまでは言いませんが、それなりにかなり穿った人間の精神世界についての論が見て取れます。彼は「知・意・物」という三つの概念によって人間がこの世界で存在し活動する様を要約しています(その一端はHPに載せた論文でおおよそ把握できると思われますので、その構造について贅言をここでは加えません)。
しかし、行動を生み出さない知は無意味であるというようなことは、陽明は言っていません。読書によって見識を得ることに対して否定的でもありません。知は普通、即応的・直感的なものと、読書・見聞によってえられたものと区別されますが、良知はいずれをも包括していると陽明は考えているのです。煩瑣な議論・儀礼の細則それ自体が否定されるべきものでなく、議論・細則が優先され心が伴わない形式的に墮した行動をこそ陽明は非難するのです。知行合一という説は実は陽明の専売特許ではなく、古来からの儒学思想を明確な形で術語にしつらえただけのものです。陽明が言っているように知行合一説をわざわざ公開したねらい(宗旨ースローガン)は朱子思想の根本を理解せず支離滅裂な言を吐く者、闇雲な行動にでるものに覚醒を促すことにあったのです。陽明は、赤子の心は人間本来の善に向かう状態であるという性善説に立ち人間の本来的な心の有様は善に向かうものと信じ、その本来的な心を発揮することを「致良知」と定義しました。実はこの点にこそ陽明思想の弱点というか、異端を醸成する種があるのです。自身の心が良知そのままとうぬぼれ修養を疎かにすれば、餓鬼のわがまま丸出しに近い状態になりましょう。
三島由紀夫氏は「陽明学を革命の哲学だというのは、それが革命に必要な行動性の極致をある狂熱的認識を通して把握しようとしたものだからである。私がこう言うのは、学間によってではなく行動によって今日までもっとも有名になっている大塩平八郎のことをいま思いうかべるからだ。」と言っていますが、彼がいう陽明学とは世間で一般的に印象先行で誤解されているものを指しているのではと思われます。最後に、人に非難され見捨てられようと、心中幾度となく反芻・自省し自身が衷心から信じえた考えを表明しようとしたのが陽明自身であって、割腹自殺という自らの美学によって生を終えられた三島氏との意識の懸隔について未だ明確な結論が出せません(つい最近三島氏の自殺についてテレビ番組で特集がありまして「ながら見」をしましたが、見落とし・触れていない点などありましたらご教示ください)。
三島氏のエッセーに関しては、私のHPの陽明思想の部屋で小考しましたので、そちらの方へもどうぞ。
●追記2000 1.6ー朝日新聞の「三島由紀夫の遺書明らかに」に引く遺書に「楯の会会員たりし諸君へ(略)
小生の脳裡にある夢は、楯の会全員が一丸となつて、義のために起ち、会の思想を実現することであつた。それこそ小生の人生最大の夢であつた。日本を日本の真姿に返すために、楯の会はその総力を結集して事に当るべきであつた。(略)
しかるに、時制あらず、われわれが、われわれの思想のために、全員あげて行動する機会は失はれた。日本はみかけの安定の下に、一日一日、魂のとりかへしのつかぬ癌症状をあらはしてゐるのに、手をこまぬいてゐなけれぱならなかつた。もつともわれわれの行動が必要なときに、状況はわれわれに味方しなかつたのである。
このやむかたない痛憤を、少数者の行動を以て代表しようとしたとき、犠牲を最小限に止めるためには、諸君に何も知らせぬ、といふ方法しか残されてゐなかつた。(略)
天皇陛下万歳!
楯の会々長 三島由紀夫
昭和四十五年十一月」
とありました。とすれば、自殺を美学と見る表現自体改めねばならないかもしれませんが 、感想のままを記したとして、そのままにしておきます。
●追記2000 7.1ー「陽明学」と言う言葉は、最近では中国の方でもポピュラーではないですが使用されていることに気づきました。最近の『日本における陽明学』吉田公平・ぺりかん社・1999に「陽明学という呼称」と題して考察しています。
1 天子・君主論(2) 田中 1999 11.11記
ーその発生とその存在意義に関する考察ー『抱朴子』巻五君道(一)
今回は『抱朴子』の君主論を数回に分けて解釈し小評します。
まず『抱朴子』は、東晉の葛洪(284〜363)の著とされる神仙・道教の書です。抱朴子とは葛洪の號で、生まれた時のままの状態を保持している人の意味です。その書物は内篇と外篇にわかれ、内篇の神仙思想とことなり外篇には儒家思想をもとにした論が多く見られます。そして、『抱朴子』の君主論が展開されている君道篇は外篇にあります。四六駢儷体の文、すなわち駢文で書かれていて、音読するとかなり凝ったものであることが分かります。
【解釈】 抱朴子は言った。天地がわかれ清く黒いもの(天)が浮かび、濁って黄色いもの(地)が沈んだ。尊卑・身分に応じた細かい規則は、かくて明らかになったのである。昔の聖人はこの天地の道理を用いて、君臣の道理は確立し、官職を分け設けることで、天下はいよいよ和らぎ楽しむことになった。
君主は必ず身を修めることによって天下のかしらとなり、偏りを除きさり王道を成し遂げ、私情を投げさり天下の公利の方を掲げ、宇宙にならって諸々のものを包括するものである。眞偽のほどが頭では分かっていても自分で見ようとし、外来からの申し出によって分かっていても自分で聞こうとし、水が堤防や水門などを破って流れ出るように善行につとめ、琴の弦をすべて断ち切るように悪を除きさるのである。そして、コを明らかにし邪道を抑え、親しむべき人を用い賢人と昵懇な関係を保つ。コンパス・差し金・墨縄・斧によって円・四角・直線・切断が完全できるように(適所適材に心がけ)、その人の器量を見るのに際し表面的な判断による任命をなくし、才能ある人に對し必ず職務を与え用いるようにする。褒賞には道理に背いた恩賞はなく職務の名目にかなうよう実績の有無を厳しくし、たびたび実績について考慮し、またつとめてそれに気を配る。規範を掲げ民の寄る辺を示し、褒賞・貶退の規定を細かくし行爲の善し悪しの基準を示し、綱紀をはっはりとさせ賞罰が違わないようにし、正直なもの、道に外れるものとの区別をはっきりとさせ後悔するような事態になるのを回避する。
褒賞には道理背いた恩恵をなくし、貶退には諸々の境遇の人たちが隠し持っていた実証をもとにする。六藝を修得し、忠信を基本として慈愛和睦の精神で民に臨み、礼と刑で民をまとめ、(才能があれば)身分の賤しい者をも挙げ用い鬱屈した気分を晴らさせ、清流を波立たせるように故意に平穏を乱すことによつて人物の善し悪しをはっきりさせ、物事に偽りの道をなくし分限をきっちりとさせる。政に参画し民を養う者は任せられた仕事以外のことに口出しをせず、戦車を引き戦う者は危険おそれたり生命を顧みないようにする。
【原文】 抱朴子曰、清玄剖而上浮、濁黄判而下沈。尊卑等威、於是乎著。往聖(御覽六百二十作曩聖)取諸兩儀而君臣之道立、設官分職而雍煕之化隆。
君人者必修諸己以先四海、去偏黨以平王道、遣私情以標至公、擬宇宙以籠萬殊。眞僞既明於物外矣、而兼之以自見、聽受既聰於接來矣、而加之以自聞、儀決水以進善、鈞絶絃以黜惡。昭徳塞違、庸親昵賢。使規盡其圓、矩竭其方、繩肆其直、斤効其。器無量表之任、才無失授之用。
考名責實、屡省勤恤。樹訓典以示民極、審襃貶以彰勧沮、明檢齊以杜僭濫、詳直枉以違晦吝。其與之也、無叛理之幸、其奪之也、有百氏之氏B匠之以六ュ、軌之以忠信、莅之以慈和、齊之以禮刑、揚仄陋以伸沈抑、激清流以澄臧否、使物無詭道、事無非分。立朝牧民者、不得侵官越局、推轂即戎者、莫敢憚危顧命。
【語釈】○清玄 清くて奥深い。ただここの「玄」は、「天玄地黄」(『易』文言伝)によったもので「玄」は色を表す。○剖 剖判 わかれ開ける。『史記』孟子列伝に「天地剖判以来、五徳転移。」○判 「剖」参照。○尊卑 『易』繋辭伝上に「天尊地卑、乾坤定矣……。」『禮記』樂器に「天尊地卑、君臣定矣……。」○等威 身分に応じた細かな規則。『左傳』文公十五年に「以昭事神、訓民、事君、示有等威、古之道也。」○兩儀 天と地。○設官分職 『周禮』天官序官に「惟王建國、辨方正位、體國經野、設官分職、以爲民極、……。」○雍煕 やわらぎたのしむ。○物外 普通、形あるものの外、俗世間の外と解する。『荘子』秋水に「物内」(もの自体)、「物外」(全体的に見た場合のものの相對的位置)という例があるが、「物外」は「自分の実際の経験と直接的な関わりのないもの」、つまり、主觀的化・抽象化されたものと解した。○儀決水以進善 『左傳』成公八年・昭公十三年に「從善如流。」○鈞絶絃以黜惡 『隷釋』に「去不善如絶絃。」○昭徳塞違 『左傳』桓公二年に「君人者、將昭コ塞違、以臨照百官、……。」○庸親昵賢 『左傳』僖公二十四年に「庸勳、親親、g近、尊賢、コ之大者也。」○考名責實 『韓非子』定法に「循名責實。」○屡省 『尚書』益稷に「屡省乃成。」○勤恤 『尚書』召誥に「上下勤恤……。」○僭濫 『詩経』に商頌・殷武に「天命降監、下民有嚴、不僭不濫……。」『左傳』襄公二十六年に「善爲國者、賞不僭而刑不濫。」○直枉 直は正直な人。枉は邪枉(道に背く)とされる人。『論語』集解より。『論語』爲政に「擧直錯諸枉、則民服。擧枉錯諸直、則民不服。」○違晦吝 「晦吝」は「悔吝」(カイリン)の誤で後悔し残念に思うこと。「違」を君道篇の前にある崇教篇に「遠悔吝」とあるのによって、「遠」の誤として解釈した。○有有百氏之飼V氏@「百氏」について御手洗氏は諸子百家のこととし、楊明照氏は『論語』憲問の「伯氏」とするが、ここでは諸々の人と解した。○六ュ(六藝) 士以上の者が修得すべきものとされた、礼・楽・射・御(馬術)・書・数の六種の技芸。また詩・書・易・春秋・礼・楽。○齊之以禮刑 『論語』爲政に「道之以政、齊之以刑、民免而無恥。道之以徳、齊之以禮、有恥且格。」○揚仄陋 「揚」は挙げ用いる。「仄陋」は「側陋」と同じで身分が賤しい者。『尚書』堯典に「明明揚側陋。」
【余説】冒頭から君主の存在理由を天地の発生と関連づけて述べるが、君主は意図的にかくあらねばならないという論と、どのように民と官吏とを用いるかが後に続く。使用している語句からもコを標榜する儒家よりであるかのようではあるが、法家的な手法をも明言している。
●あとがきー英語には無生物主語があるということで、日本語には無生物主語が昔からないと思い違いしている人が多くいます。涙・河が流れるというのは無生物主語の類ですが、日本語には無生物が動作の主体となって生物に對し何らかの働きかけをするという表現が突飛な印象を与えるのです。「彼に對する愛が私を変えたのよ。」なんていう言い方より「私は……」という言い方の方が分かり易いですね。かといって、だから日本人は論理的な思考が不向きだと飛躍するのには賛成しません。言語の構造が違うだけでしょう。この『抱朴子』君道にある「雍煕之化隆」の解釈には頭を抱えました。もし、これを解釈しろなんていう入試問題がでたとしたら私はここで小一時間ほど考えてしまって不合格間違いないかもしれません。
さて、御手洗(ミタライ)勝氏の『抱朴子外篇簡注』・広島大学文学部中國哲学研究室、楊明照撰『抱朴子外篇校箋』上・中華書局が手元にない状態で、平凡社版・本田済氏訳『抱朴子』のみを参考に、その剽窃ではない私なりの解釈を試みたのですが、一週間たっても解釈が数行しか進まない状況でした。そこで名古屋大学の研究室に赴き二種類とも借りてこのコラムの【解釈】【語釈】を作成しましたが、両書の解釈の方向に時折違いが見られるため、【語釈】にはそのすべてを載せたわけではなく私の判断する解釈の方向に合致したものを載せました。
研究者がこつこつと進めている注釈として『商君書』(岡山大学紀要・好並隆司氏作成。單行本として発刊された。 )、『春秋繁露』(東洋大学中國哲学文学科紀要・川田健・岩野忠昭諸氏による注釈)、『韓詩外伝』(福岡女子短大紀要・吉田照子氏による注釈)がありますが、ひょっとして私がしていることと同じことを誰かが既にされているでしょう。
なおこの君主論についてのコラムはその性質上長期間にわたり、更新もなかなかはかどらないでしょう。テーマを中國の君主論に絞って、その視點からいろいろな古典をあさってみると以外にも多くの書物で扱われていることに気づきました。たとえば先に考察したケ牧と同じ篇名が『抱朴子』以外『説苑』にもありました。自分でも厄介な問題に首を突っ込んだと半ば諦めていますが、将来これらが『中國の君主論の性質』などという論文に発展するのか、今のところ検討がつきません。
2 三と九についてー汪中『述學』から 田中 1999 11.20記
中國では、漢代から三皇五帝というように、ある決まった數を特に用いる傾向があります。三と五だけでなく九もよく用いられます。これについて汪中が『述學』で考證したの部分が「釋三九」です。
その汪中(1744〜1794)ですが、C朝中期の學者です。古典讀解の上で古典文字に關して貴重な業績を殘した王念孫と交流があった人物で汪中は古典讀解の上で古典文字のみならず思想に關しても貴重な業績を殘しました。
さて、汪中の研究方法のすごさの一端を以下に見てみましょう。
【原文】一奇二偶、一二不可爲數。二乘一則爲三。故三者數之成也。積而至十、則復歸於一。十不可以爲數。故九者數之終也。於是先王之制禮、凡一二之所不能盡者、則以三爲之節。三加・三推之屬、是也。三之所不能盡者、則以九爲之節。九章・九命之屬、是也。此制度之實數也。因而生人之措辭、凡一二之所不能盡者、則約之三、以見其多。三之所不能盡者、則約之九、以見其極多。此言語之虚數也。實數可稽也。虚數、不可執也。
何以知其然。『易』「利近市三倍。」、『詩』「如賈三倍。」、『論語』「焉往而不三黜。」、『春秋傳』「三折肱爲良醫。」。(『楚辭』作九折肱。)此不必限以三。『論語』「季文子三思而後行。」、「雌雉三嗅而作。」、『孟子』書「陳仲子食李三咽。」此不可知其爲三也。『論語』「子文三仕三已。」、『史記』「管仲三仕三見逐於君。」、「三戰三走。」、「田忌三戰三勝。」、「范蠡三致千金。」此不必其果爲三。故知三者、虚數也。
『楚辭』「雖九死其猶未悔。」此不能有九。『詩』「九十其儀。」『史記』「若九牛之亡一毛。」又、「膓一日而九迴。」此不必限以九。『孫子』「善守者、藏於九地下、善攻者、動於九天之上。」此不可以言九。故知九者、虚數也。推之十百千萬、固亦如此。故學者、通其語言、則不膠其文字矣。
【訓讀】 一奇二偶、一二は以て數と爲すべからず。二一を乘すれば、則ち三と爲る。故に三なる者は、數の成なり。積みて十に至れば、則ち復た一に歸す。十は、以て數と爲すべからず。故に九なる者は、數の終なり。是に於て、先王禮を制して、凡そ一二の盡くす能はざる所の者は、則ち三を以て之が節と爲す。三加・三推の屬、是なり。三の盡くす能はざる所の者は、則ち九を以て之が節と爲す。九章・九命の屬、是なり。此れ、制度の實數なり。因りて生人の辭を措きて、凡そ一二の盡くす能はざる所の者は、則ち之を三に約し、以て其の多きを見し、三の盡くす能はざる所の者は、則ち之を九に約し、以て其の極めて多きを見す。此れ、言語の虚數なり。實數は稽ふべし。虚數は、執るべからず。
何を以て其の然るを知らん。『易』「利に近づきて市り三倍す。」、『詩』「賈の三倍するが如き。」、『論語』「焉くに往くとして三たび黜けられざらん。」、『春秋傳』「三たび肱を折りて良醫と爲る。」。(『楚辭』九たび肱を折ると作る。)此れ必ずしも限るに三を以てせず。『論語』「季文子三たび思ひて後に行ふ。」、「雌雉三たび嗅ぎて作つ。」、『孟子』の書「陳仲子李を食ひて三咽す。」此れ其の三と爲すを知るべからず。『論語』「子文三たび仕え三たび已む。」、『史記』「管仲三たび仕へて三たび君に逐はる。」、「三たび戰ひ三たび走ぐ。」、「田忌三たび戰ひて三たび勝つ。」、「范蠡三たび千金を致す。」此れ必ずしも其れ果たして三と爲さず。故に知る、三なる者は、虚數なりと。
『楚辭』「九死すと雖も、其れ猶ほ未だ悔いず。」此れ、九たび有る能はず。『詩』「其の儀を九にし十にす。」『史記』「九牛の一毛を亡へるが若し。」又、「膓一日にして九迴す。」此れ必ずしも限るに九を以てせず。『孫子』「善く守る者は、九地の下に藏れ、善く攻むる者は、九天の上に動く。」此れ、以て九と言ふべからず。故に知る。九なる者は、虚數なり、と。之を十百千萬に推すに、固より亦此くの如し。故に古を學ぶ者、其の語言に通ずれば、則ち其の文字を膠らず。
【解釋】 一は奇、二は偶であり、一二は數とすべきものではない。二は一を加えれば、三となる。三とは、數の成數である。それらが、積み重なり十になれば、ふたたび一に戻る。十は、數とすべきものではない。だから、九とは、數の終わりである。こういうわけで、先王が禮を制定する際、皆、一二で覆いきれないものは、三で節目とする。三加・三推の類が、そうである。三で覆いきれないものは、九で節目とする。九章・九命の類が、そうである。これらは、制度の實數である。そういうわけで人が言葉を發して、すべて一二で覆いきれないものは、それを三でまとめて、その多さを示し、三で覆いきれないものは、それを九でまとめ、その極めて多いことを示すのである。これは、言語の虚數である。實數は考えることができるが、虚數は、それに拘泥してはならないものである。
どうしてそのようであるのが分かるというと、『易經』に「利uを求めものを賣り三倍の利uを得る。」、『論語』に「どこに行ったとしても、三度ぐらいは免職になる。」、『左傳』に「三度肘を折って良醫となる。」(『楚辭』には、九回肘を折ると書いている。)とあるが、これらは、必ずしも三によって制約されない。『論語』に「季文子は三度考えて行動に移した。」、「めす雉は三度かいで飛び立った。」、『孟子』の書に「陳仲子はすももを食べ三度呑み込んだ。」とあるが、これらは、三度であったのか分からない。『論語』に「子文は三度仕え令尹になったが、三度免職された」、『史記』に「管仲は、三度仕えて、三度主君に追われた。」、「三度戰って三度とも逃げた。」、「田忌は、三度戰って三度勝った。」、「范蠡は、三度千金を稼いだ。」とあるが、これらは、必ずしも實際に三度したとは限らないのである。だから、三は虚數であることが分かる。
『楚辭』に「幾度死ぬとしても、悔いることはない。」とあるが、これは九度することなどありえない。『詩經』に「その儀を九十にする。」、『史記』に「九頭の牛が一本の毛を失ったようなものである。」また、「膓は、一日に九回も回轉するほどであった。」とあるが、これは必ずしも九によって制約されない。『孫子』に「守備にたけている者は、極めて深い地の底に隱れ、攻撃にたけている者は、極めて高い天上で行動する。」とあるが、これは、九などと言うことができない。だから、九というのは、虚數であることが分かる。このことを十百千萬に推し考えると、やはりそのようである。だから、古を學ぶ者は、古の語言に薗ハすれば、その文字を誤って解釋することはない。
【語釋】○成數 @完全な數A多くの數Bまとまった數等の意がある。ここでは、Bの意か。『黄帝内經』素問三部九侯論に「天地之至數、始於一、終於九焉。」、『史記』律書「數始於一、終於十、成於三。」、『後漢書』袁紹傳・李賢注「三者、數之小終。」(中華書局P.2389)、『説文』に「三數名、天地人之道也。於文一C二爲三、成數也。」(一篇上・十七葉)陳煥「數者、易數也。三兼陰陽之數言。」(同上)○三加 古代の冠禮として、初めに緇布の冠、次に皮辨、次に爵辨を加える。『禮記』冠義に「冠於ナ、以著代也。J於客位、三加彌尊。」(主人の登るべき東側の階段・ナ階で冠を付けるのは、父に代るのを示すためである。賓客に爵杯を注ぎ、三種類の冠を付けられ、地位はますます尊くなるのである。)とあることによる。○三推 『禮記』月令に「是月也、……天子親載耒耜……帥二三公九卿、躬耕帝籍、天子三推、三公五推、卿ゥ侯九推。」(正月には、……天子はみずからすきを馬車に乘せ、……三公九卿を引き連れて~を祭る爲の田である籍田をみずから耕す。天子は、三度すきを動かし、三公は五度、九卿は九度押し動かす。)による。○九章 天子の服の九つの模樣。龍・山・華蟲・火・宗彝・藻・粉米・黼・黻。○九命 九つの任官の儀式である「九儀」の辭令のこと。九つの規定によって、官爵の貴賤を定めた。『周禮』春官・太宗伯。○措辭 詩文などの文句の配置。○虚數 實際の數量を示していない數詞。○『易』近利市三倍 説卦傳「巽爲木、爲風、……爲近利市三倍、其究爲躁卦。」(巽の卦は、木であり、風であり、……利uを求めものを賣り三倍の利uを得るものであり、究極的には、騷がしくあわただしい躁の卦である。)による。○『詩』如賈三倍 大雅・蕩之什・瞻。「鞠人ヨハ、…… 如賈三倍、君子是識。婦無公事、休其蠶織。」(婦人の巧舌は、人を困らせ害し、言う言葉はそのキ度變わる。……價格を三倍にして利uをむさぼるのは、君子があずかり知ることではない。婦人は公の外事がないのに、蠶づくりと機織りを休んでいる。)による。○『論語』焉往而不三黜 微子篇「柳下惠爲士師、三黜。人曰子未可以去乎。曰、直道事人、焉往而不三黜。」(柳下惠が、魯の獄官の職に就いて三たび免職された。或るひとが言った。「あなたは、まだ魯を去ることができないのですか。」と。柳下惠は言った。「正しい道を歩み人に仕えれば、どこに行ったとしても、三度ぐらいは免職になる。)による。○『春秋傳』三折肱爲良醫 定公十三年に「三折肱、知爲良醫。」(三度肘を折って名醫であることが分かる。)。なお、「三折肱」は成語として、「經驗を積んで老練になること」のたとえとして用いられ、「九折臂」とも言う。○『楚辭』作九折肱 九章・惜誦に「吾聞作忠以造怨兮。忽謂之過言。九折臂而成醫兮。吾至今乃知其信然。」(私は「忠を盡くして怨みを招く」というのを、うかつにも言過ぎであると思っていた。しかし、「九たび肘を折って醫者となる」というように、私は今になってその言葉が本當であることが分かったのである。)。○『論語』季文子三思而後行 公冶長に「季文子思而後行。子聞之曰、再斯可矣。」(季文子は、三度考えて後行動に移した。先生は、このことを聞いて二度考えて行動に移せば、よいであろう、と言った。)。○雌雉三嗅而作 『論語』ク黨篇に「色斯擧矣、翔而後集。曰、山梁雌雉、時哉、時哉。子路共之。三嗅而作。」(詩經に「鳥は、人の樣子を見て飛び上がり、飛び回って止まる。」とある。先生は、言った。谷川の橋にいる雌きじは、時を得たものだなあ。時を得たものだなあ。」と。子路が、これに餌を與えたところ、雉は三たび臭いをかいで飛び立った。)。○『孟子』書陳仲子食李三咽。 滕文公に「匡章曰、『陳仲子豈不誠廉士哉。居於陵、三日不食、耳無聞、目無見也。井上有李、註H實者過半矣。匍匐往將食之。三咽、然後耳有聞、目有見也。』」(匡章が言った。「陳仲子は、誠にC廉な士ではないでしょうか。於陵に居り、三日食べるものもなく、耳は聞こえず、目は見えぬ状態であった。井戸の側に、すくもむしが半分ほど食べたすももがあり、腹ばいになって行きそれを取って食べ、三口ほど呑み込んでやっと耳は聞こえ、目は見えるようになった。」と。)。○『論語』子文三仕三已 公冶長に「子張問曰『令尹子文、三仕爲令尹、無喜色。三已之、無慍色。舊令尹之政、必以告新令尹。何如。』子曰、『忠矣。』」(子張は質問していった。「楚の宰相であった子文は、三度仕え令尹になったが、喜んだ樣子もなく、三度免職されたが、不滿な顏つきもせず、辭める際には、自分の令尹としてした仕事を必ず新しい令尹に告げたというのは、どうでしょうか。」先生は言った。「忠實なことだ。」と。)。○『史記』管仲三仕三見逐於君 管晏列傳に「吾嘗三仕三見逐於君、鮑叔不以我爲不肖。知我不遭時也。」(私は、嘗て三度仕えて、三度主君に追い拂われた。しかし、鮑叔は私を愚かものとはしなかった。私が時に惠まれていなかったことを知っていたからである。)。○三戰三走 『史記』管晏列傳「吾嘗三戰三走。鮑叔不以我爲怯、知我有老母也。」(私は、嘗て三度戰って、三度とも逃げたことがあった。しかし、鮑叔は私を卑怯だとはしなかった。私に老母がいたのを知っていたからである。)による。○三戰三勝 田敬仲完世家「吾田忌之人也。吾三戰而三勝、聲威天下。」(私は、田忌の手下のものである。私達は、三度戰い三度勝ち、名聲は天下に轟いた。)による。『戰國策』齊策にも見える。○范蠡三致千金 『史記』貨殖列傳に「十九年之中、三致千金、再分散與貧交疏昆弟。(范蠡は、十九年の中に、三度も千金を稼ぎ、その金を二度も貧しかった時の友、疎遠になった兄弟らに分け與えた。)。○『楚辭』雖九死其猶未悔。 『楚辭』離騷「亦吾心之所善兮、雖九死其猶未悔。」(私が心中よしとしたことだから、幾度死ぬとしても、悔いることはない。)による。○『詩』九十其儀 風・東山に「我徂東山、ササ不歸……之子于歸、皇駁其馬、親結其w、九十其儀。」(私は、東の山に行き、久しく戻らなかった。……妻が嫁いだ時、妻は樣々な色の馬車に乘り、妻の母は妻の腰ひもを結んであげ、作法も丁寧にされた。)。○『史記』若九牛之亡一毛 司馬遷『報任安書』「假令僕伏法受誅、若九牛之亡一毛。與螻蟻何以異。」(たとえ私が、罪に服し誅を受けたとしても、九頭の牛が一本の毛を失ったようなものである。むしけらが死んだと同樣である。)とあるのが出典で、「非常に僅かなたとえ」として使われる。該當個所は『漢書』司馬遷傳(中華書局P.2732)・『文選』卷四十一にも見える。○膓一日而九迴 司馬遷『報任安書』による。憂悶の甚だしいことの形容。該當個所は『漢書』司P.2736)にも見える。○『孫子』善守者、藏九地之下。善攻者、動九天之上。 『孫子』形篇。
【參考文獻】 『古代中國人の「數觀念」』酒井洋・嶽書房
●あとがきーこれは數年前の演習時に配布した私の發表ノートです。また、かつてのノートを整理していて發見したものです。Cの考證學の特徴の一つは博引旁證よって意義を究明するということでしょうが、汪中自身よくもこれだけ集め考察したものです。ただ、この箇所の發表當番となった不運の思いもそれに反比例して搨キしていたのは闊痰「ありません。ただこの論によって古典を讀解するうえで三と九について実數か否かを見極めねばならないことについて改めて注意を促されました。
日本で最も漢文が讀める數人の一人とされる石川梅次カ先生から講義中に承ったことですが、先生いわく「二時閧フ講義の豫習には六時闡眼cかかるのに、給料は……」と。まさかと當時聞き流していましたが、不肖な私の場合は石川先生の數倍もかかることがこのノートの件で實感されました。學部生でも院生でも一週闡Oから發表の箇所の下調べしても誤りを指摘される状態ですので、大學の先生方はそれなりに過酷な修羅の道をかいくぐっていることを一般の人々に分かってほしい氣もします。そして何かを究明しようとしたら受驗勉強なみの勞力ではなしえないこともちょっとは理解してほしいです。改革と稱して大學のヘ員の定數削減をし助手の數も減りましたが、小學・中學・高校・大學に關わらずヘ員は日夜拐~的な葛藤の中にあることも。
1 天子・君主論(1) 田中 1999 10.17記
ーその発生とその存在意義に関する考察ーケ牧『伯牙琴』君道について
先日朝日新聞での中國関連の記事を読んでいたら、中國では最高権威者と目される人が二人以上になると必ず國が乱れるとありました。東洋史専攻の方にとっては聞き古されたことかもしれませんが、畑違いの中國思想専攻の私は今更ながらこの片言によって思想の再検討・再構築を促されました。
そこで、天子・君主論についてランダムに思想家の原典を考察してみたいと思います。國家の上に立つ天子・君主は元来、想像するに支配力のあった神官あるいはそれに準ずる者、豪族が勢力を他へ向けその他を没収することによって次第に広大化していったものでしょうが、後世、神聖化された者もいれば悪評の多い者もいます。アジア・西欧は和辻哲郎氏のいう風土・あるいは伝統的な風習によって半ば類型しうる側面を持っているため、この天子・君主論はもとより西欧のそれとは異なるでしょう。
さて、さして著名な人ではないですが、ケ牧(1247〜1306)は宋末の人で、自ら「三教外人」、つまり、儒仏道の範囲から離れた立場にある者と称し、従来の学説にとらわれのない態度で歴史批評をしました。彼の著作として『伯牙琴』が残っているのですが、その中の「君道」の原文と現代語訳を載せ彼の言説を少考していこうと思います。
【解釈】 古の天下をおさめるということは、ほぼやむを得ないものであったが、後世はそれを楽しみにした。これが天下を治めがたい理由である。人が現れた當初もとよりよろこんで君主になろうとした者はなかった。不幸にも天下の人に慕われることとなり拒むこともでなかったが、天下の人が私に要求するものがあっても私には要求する者はないという状態であった。
あなたは至徳の世を聞いたことがありませんか。堯はくろごめとあわを食らいあかざと豆をすするように飲食は豪奢ではなく、夏はくずのつるの服を着、冬には子鹿の皮衣を着るというように万全ではなかった。土製の階段が三尺、かやぶき屋根の端も切りそろえないように天子の宮殿は美とはいえなかった。下民の意見を集めるため明堂に訪れ聞いたので、『書經』には「皇帝は下民に問うた。」とある。分限の区別はさほど厳格ではなかった。堯は許由に國を譲ろうとしたが許由は逃げ、舜は石戸の農に譲ろうとしたが石戸の農は入海してついに戻らなかった。天子の位はまだ尊くはなかったのである。そもそもそういうわけで天下の人々は天子を厭わずよろこんでまつりあげ、その位をすて跡を継ぐものがいないのを心配した。
不幸なことに天下は秦によって昔から続く天子から与えられた領土・制度を壊され総て一つのものとされた。人口に合わせ税を多く取り立て、天下の財産をすべて自分に貢がせることによって君主の位は高くなり、詩書を焼き払い法律に頼り、長城を萬里まで築かせたように、およそ位を固め尊い者を養わせようとする手段はすべてやって、君主はますます孤立することとなった。身分の低い男が一金を携えびくびくとするように、後人に位を奪われないかとおどおどし、ほとんど危うい状態となった。
天が民を生じ君主をたてるのは君主のためではない。どうして天下の広い資材で一人の男の用事に對し準備しなければならないのか。およそ飲食が豪奢で衣服がととのい家屋が美しかったのは、堯舜の時ではなく秦からである。分限を厳しくし位を尊いものとしたのは堯舜の時ではなく秦からである。後の君主が功徳を歌いたたえて何かとつけて堯舜をいうのに、自分の所作はなんとも秦のそれと同じとはどういうことか。『書經』にいっている。「酒にひたり、音楽を好んだり、宮殿を高く大きなものにし屏を飾りつける、これらの一つでもあって國が滅びたことのないものなどない。」かのいわゆる君主とは、四つ目であったり、二つの口があったり、魚のような頭であったり、羽に覆われた臂であるものではない。姿形は人と同じであれば、その人もなりうるのである。今もし人の好むものを奪い、争い欲しがるものを集め、蔵の戸締まりをおろそかにし泥棒を招き入れるようなことをし、なまめかしく化粧をして淫らな心を起こさせようとするするようなら、長く治安の状態を保とうとしてもできようか。
郷師や里胥といった役人は卑しい地位の役人であるが、一般のひとより抜きんでたものである。しかし天下を治有していないことを楽しんでいられるのは、利益がそこにないからである。聖人が天下に對して利益を求めないのも、郷師や里胥と同じである。ただその位に人を確保することができないことをびくびくしていたのなら、どうして人がその位を奪うのではないかとびくびくとしようか。そもそもその位を奪うのではないかとびくびくする人が、鎧と武器・弓矢を手に盗賊を相手にするのは乱世のことである。どうして聖人が上にいて天下に人々が父母のようにたてまつっていながら、盗賊を憂慮したり鎧と武器・弓矢を手に自衛するということがありえよう。だから堯舜のようになりたかったなら、天下の人々に君主であることに楽しみを見いださせないようにさせ、秦のようになりたかったならば、盗賊が天下を争うことをいぶからせないようにしたらいいのである。
ああ、天下に恒久なものがありえようか。負ければ盗賊となり、成功すれば帝王となる。劉漢中や李晉陽は乱世ならば治世をいたす君主となるが、治世では乱民である。國家を治有するのにそれを救う手段を講じず、知者と卑しい者がごたまぜになり強者弱者がしのぎあっていては天下の乱はいつ止むであろうか。
【原文】 古之有天下者、以爲大不得已、而後世以爲樂。此天下所以難有也。生民之初、固無樂乎爲君。不幸爲天下所歸、不可得拒者、天下有求於我、我無求於天下也。
子不聞至徳之世乎。飯糲梁、啜藜リ、飲食未侈也。夏葛衣、冬鹿裘、衣服未備也。土ヘ三尺、茆茨不翦、宮室未美也。爲衢室之訪、爲總章之聴、故曰、「皇帝清問下民」。其分未厳也。堯譲許由而許由逃、舜譲石戸之農而石戸之農入海、終身不反。其位未尊也。夫然、故天下樂戴而不厭、惟恐其一日釋位而莫之肯繼也。
不幸而天下爲秦、壊古封建、六合爲一。頭會箕斂、竭天下之財以自奉、而君益貴、焚詩書、任法律、築長城萬里、凡所以固位而養尊者、無所不至、而君益孤。惴惴然若匹夫懐一金、懼人之奪其後、亦已危矣。
天生民而立之君、非爲君也。奈何以四海之廣、足一夫之用邪。故凡爲飲食之侈、衣服之備、宮室之美者、非堯舜也、秦也。爲分而厳、爲位而尊者、非堯舜也、亦秦也。後世爲君者歌頌功徳、動稱堯舜、而所以自爲乃不過如秦、何哉。書曰、「酣酒嗜音、峻宇雕牆、有一於此、未或不亡。」彼所謂君者、非有四目兩喙、鱗頭而羽臂也。状貌咸與人同、則夫人固可爲也。今奪人之所好、聚人之所爭、慢蔵誨盗、冶容誨淫、欲長治久安、得乎。
夫郷師、里胥雖賤役、亦所以長人也。然天下未有樂爲者、利不在焉故也。聖人不利天下、亦若郷師、里胥然、獨以位之不得人是懼、豈懼人奪其位哉。夫懼人奪其位者、甲兵弧矢以待盗賊、亂世之事也。惡有聖人在位、天下之人戴之如父母、而日以盗賊爲憂、以甲兵弧矢自衛邪。故曰、「欲爲堯舜、莫若使天下無樂乎爲君。欲爲泰、莫若勿怪盗賊之争天下。」
ホ、天下何常之有。敗則盗賊、成則帝王。若劉漢中、李晉陽者、亂世則治主、治世則亂民也。有國有家、不思所以テ之、智鄙相籠、強弱相陵、天下之亂、何時而已乎。
【語釈】○飯糲梁、啜藜リ……土ヘ三尺、茆茨不翦 糲梁はくろごめとあわ。藜リはあかざと豆。粗食をいう。『韓非子』五蠧に「堯之王天下也、茅茨不翦、采椽不。糲粢之食、藜リ之羮。冬日麑裘、夏日葛衣、」『墨子』三辯に「昔者堯舜有茅茨者、且以爲禮、且以爲樂。」○衢室 政をきくところ。後世の周の明堂と同じ。堯が下民の意見を聞くために設けた。『管子』桓公問に「堯有衢室之問者、下聽於人也。」○總章 天子(舜のころ)の明堂。衢室と同じ。○皇帝清問下民 『書經』呂刑に見える。○堯譲許由而許由逃 『荘子』逍遥游に「堯譲天下于許由、曰、「日月出矣、而V火不息、其于光也、不亦難乎。時雨降矣、而猶浸灌、其于澤也、不亦労乎。夫子立而天下治、而我猶尸之、吾自視缺然。請致天下。」許由曰、「子治天下、天下既已治也、而我猶代子、吾將爲名乎。名者、實之賓也、吾將爲賓乎。鷦鷯巣於深林、不過一枝。偃鼠飲河、不過滿腹。帰休乎君、予無所用天下爲。庖人雖不治庖、尸祝不越樽俎而代之矣。」○舜譲石戸之農…… 石戸之農は舜の友人。『荘子』讓王に「舜以天下讓其友石戸之農。石戸之農曰、「捲捲乎后之爲人、葆力之士也。」以舜之徳爲未至也。于是夫負妻戴、携子以入于海、終身不反也。」○頭會箕斂 頭数にしたがって箕のように税をとりたてるひと。『淮南子』汎論訓・『史記』張耳陳餘列伝。○惴惴(ズイズイ) おそれおののく様子。○酣酒嗜音、峻宇雕牆、有一於此、未或不亡。 『書經』五子之歌に見える。ただし五子之歌は擬古文、つまり後世の偽作とされるため、根拠に乏しいという恨みがある。原文は「甘酒嗜音、峻宇彫牆。有一于此、未或不亡。」○四目 中國の伝説上の人物で、鳥の足跡を見て文字を創作したとされる倉頡は四つ目であったという。『春秋緯』演孔図「倉頡四目、是謂並明。」○兩喙 喙は口。○鱗頭 鱗はさかなの意か。○羽臂 臂はひじ。○慢蔵誨盗、冶容誨淫 『易經』繋辭伝上に見える。○郷師 地方の教育関連を管轄する役人。○里胥 村の子役人。○劉漢中、李晉陽 未詳
【余説】すぐれた君主は、君主となることに利益を生じさせない土壌でうまれる。これが、主旨であるが、秦・漢以降から國家が地方を管轄・統制する求心的権力が生まれ、國家の安泰のため地方の勢力を如何にそぐかに腐心することとなる。ケ牧は常套的な堯と秦との對照によって、古代の君主制を理想視しておりその説は一見儒家寄りにもとれる。ただ、天下を治有することに利益を求めるか否かにこだわって論を立てる點が特徴的である。
実際、例えば日本でいう地方の小單位の村・町の自治区では住民に推挙される人物がその地域の代表をつとめることはできようが、そもそも單位が大きくなる對外的な交渉ではその代表人の資質・率先力・合理的な主張の有無が成否を分けるため、自然代表というのは専門的職業となるべき性質を持つとも考えられる。また、一國の思想体制は古代から現代まで國家を問わず流血によって方向転換されてきた面もあるという觀點からもみてみると、ケ牧の主張は根本的な解決法とはほど遠い。儒教・道教とは異なったケ牧なりの理想境の論であろう。
因みに堯舜に関する説話は道家・法家・墨家の言説に依拠し、儒家側では正統とされないものを立説の根拠としているが、これによっても儒教寄りの言説でないことが分かる。
【参考資料・文献】
○小島祐馬『中國の社会思想』筑摩書房1967
【小島氏の簡釋ー前掲文献p189の原文・ルビなし】古えの天下を有つ者は大いに已むことを得ざるものがあって出たのであるが、後世は天下を有つことをもって享楽となすにいたった、これ天下の有ち難きゆえんである。生民の初めは、もとより楽しんで君主となる者はない。不幸、天下の帰するところとなり、拒むことを得ずして君主となったものである。故に天下我に對して求むるところあるも、我れ天下に對して求むるところはない。されば、かの至徳の世にあっては、君主は糲梁を飯い、黎リを啜って、飲食ははなはだ粗末である。夏は葛衣、冬は鹿裘で、衣服もはなはだ不十分である。土階三尺、茆茨剪らず、家屋ももとより立派ではない。そして衢室の訪をなし、総章の聴をなし、君主と人民との分はいまだ厳格ではない。堯はその位を許由に譲らんとして許由逃げ、舜はその位を石戸の農に譲らんとして石戸の農、海に入って終身反らなかった。これ実に君主の位いまださほど尊いものではなかったがためである。それ然り、故に天下君主を戴くことを楽しんで厭わず、ただもし君主が一日位を釈てて去り、これに代わるものがないようなことがあっては困ると心配するのみであった。
不幸にして天下秦のために古えの封建を壊たれ、六合一となるや、頭会箕斂、天下の財を竭くして以って君主の一身に奉じ、而して君権はますます貴く、『詩』『書』を焚き法律に任じ、長城万里を築くなど、およそ位を固くし尊を養うゆえんのもの至らざるところなく、而して君位はますます孤立した。惴々然としてあたかも匹夫一金を懐にするもの、人のその後より奪わんことを懼るるがごとく、いかにも危険なる境遇となった。
元來、天が民を生じて君を立つるは君のためにするのではない。いかんぞ四海の広きをもってして、一夫の用を足すがごとき不合理のことがあろうか。さればおよそ飲食の侈り、衣服の備わり、宮室の美なる者は、堯舜ではなく秦である。君民の分をなすこと厳に、その地位を尊貴にする者は、堯舜ではなくまた秦である。後世の君主たる者、その功徳を頌して動もすれば堯舜を称するも、その爲すところは、まったく秦皇の所爲にほかならないのである。
『書経』にも「酒を甘しとし音を嗜み、宇を峻くし牆を雕む、ここに一あり、いまだ亡びざるはあらず」といってある。かのいわゆる君主なる者、四目両喙、鱗頭にして羽臂あるのではなく、状貌みな人と同じことである。すなわち他の人で君主のすることができないという道理はない。今、人の好むところを奪い、人の争うところを聚め、慢蔵して盗を誨え、冶容して淫を誨ゆ、その長治久安ならんことを欲するも得られるはずがない。
いったい郷師・里胥のごときは、賤役ではあるがまた人に長たるゆえんである。しかるに天下楽しんでこれをなす者のないのは利が伴わないからである。聖人は天下をもって利とせざること、また郷師・里胥と同じことである。ただ自分がその位に適しないことをこれ懼るるのみで、決して人のその位を奪うことを懼るるがごときことはない。それ人のその位を奪うことを懼るる者は、甲兵・弓矢をもって盗賊に備えるもので、これは乱世の事である。悪んぞ聖人位に在り、天下の人これを戴くこと父母のごとくにして、しかも日に盗賊をもって憂となし、甲兵・弓矢をもって自ら衛るというがごときことがあろうや。
されば堯舜の治を欲せば、天下をして君主たるを楽しむことなからしむるがよい。秦皇の治を欲せば、盗賊の天下を奪うことを怪しまないがよい。ホ、天下何の常か有らん、敗るれば盗賊、成れば帝王。劉漢中・李晋陽のごとき者も、乱世なればすなわち治王、治世なればすなわち乱民である。
國を有ち東を有つもの、これを救うゆえんを思わず、智鄙相い籠し、強弱相い陵ぐがごとき状態では、天下の乱は何時まで経っても已む時はあるまい。
○『伯牙琴』ケ牧・北京中華書局
●あとがきーこの君道は管見の及ぶところ上の小島氏の研究しかなく、解釈に正確を期するため語句の出典調べにかなりの労力をとられました(人・研究所・國によっては原文の意味さえ分かればよく、出典はあとからでも調べられると説く向きもありますが、原典作者が何を引用し論を立てているか、そしてその引用に瑕疵はないのかまでシビアなまで追求しなくては細部までの批評ができない)。原文は活字本となっている中華書局本からのocr入力だったので、こちらは簡單でした(ただ外字を使用していますので、私の外字集をインストールしなければ完全な形では読みとれません。漢字文化圏の文字コード問題がはやく解消されることを個人的に切望します。そして機種依存文字も)。本としてのテキストは48ページで背の厚みも一センチにも滿たないペラペラなものですので書店で探すのには一苦労でしょう。幸い『四庫全書』にも収められていそうなので(中華書局本には提要が載せてありました)興味のある方はそちらで閲覧できるかと思います。
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