くしろ義経伝説めぐり
1昨年(平成17年)、NHKの大河ドラマ「義経」が放送されて多くの支持を受けたように今だ衰えない義経人気ですがその人気の秘密は、兄・頼朝のために活躍したにも関わらず逆にその活躍ぶりが仇となって追われる身となり自決する最後を迎えることになった。
と、いう話が俗に言う“判官びいき”という人の心情を打つ伝説となり語り継がれてきたからでしょう。

しかし、義経は衣川(自刃したとされる地)で死んだのではなく自決したのは、実は身代わりで義経主従は、その1年前にすでに平泉をあとにして遠野から三陸海岸、八戸、青森、津軽と北上して平泉を出てから7年目の1195年、義経が37歳の時に蝦夷地に渡った。
更には、蝦夷地各地を転々とした後に海を渡り満州、アジア、ヨーロッパを回ってジンギスカンになった・・!などという伝説まであります。
今となっては、判官びいきが作った“生きていてほしい!”という世情の作り話なのか?本当に海を渡ったのか?真偽のほどは分りませんが、北海道に住むものとして興味深い話であることには変りありません。

そこで“蝦夷地各地を巡った!”とのことなので釧路地方にも来ていないのだろうか?伝説はないのだろうか?と思っていたところ「北海道義経伝説序説」阿部敏夫編著(響文社)という面白そうな本に出会いました。
北海道各地の伝説を研究している方々の共著なのですが義経の当時の足跡やお墓を真摯に探している人の論文、昔からアイヌ伝説と絡めて各地に伝わる話などなどが紹介されています。

そこで釧路地方の義経伝説があるのだろうか?と読んでみたところ、思ったよりたくさんの話が伝わっていました。
ほとんどが現実的ではない話なのですが釧路地方にも昔から義経伝説があったことに感動しました。
このページでは、その浪漫ある伝説地を巡る散歩に出かけたいと思います。

更に、その伝説を参考にして釧路地方の観光に生かせないか?チョッと考えてみましょう!!
*釧路地方に伝わる義経伝説の地を巡る悠久の浪漫散策に出かけてみましょう!
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 釧路の伝説は、釧路の郷土史研究の第一人者で初代釧路市立図書館館長の
   佐藤直太郎先生がアイヌの方々などに伝わる話を聞いてまとめたものです。


・知人の義経伝説
義経が釧路に来たときに、弁慶と相談して海に臨んで阿寒の山も見えて景色が良い知人岬が気に入って“義経(サマイクル)のチャシ”を築いて長く住むことにしたそうです。
 場所は、現在の厳島神社付近で現在のように築港のために岩石が取られる前なので平らな丘だったそうです。
そこでは、“弁慶の射た矢は大楽毛を越したばかりでのところに落ちたが、義経の矢は白糠を飛び越してた海岸に突き刺さった。”という、義経と弁慶が弓の勢いを競ったという話があるようです。

・義経の窓岩伝説
興津の海岸に窓岩(めがね岩)という穴の開いた大きな岩がありましたが、その岩は、知人岬から弁慶と弓の競争をしていたとき“弁慶の射た矢は大岩まで届いただけであったが、義経の矢はその大岩を打ち抜いた。”ということで出来たと伝えられているようです。

・義経の舟伝説
知人岬に赤茶けた粘土のが露出した舟形の窪地があり(現在の厳島神社付近らしいです。)アイヌの人たちは、ホンカイシャマ(判官様・・義経のこと)が乗ってきた舟であるとの言い伝えがあり“小便などをすると罰が当る”と堅く禁じられていたそうです。

・知人岬の神の橋伝説
現在の釧路崎灯台下の海中へ続く長く点々と突き出た二列の岩があって、干潮のときは、壊れた橋杭のように見えるそうですがアイヌの人たちは、これをカムイルイカ(神の橋)といったそうです。
そのカムイルイカの伝説は、“知人岬に住んでいたと時、十勝の広尾の岬まで橋をかけようと家来の弁慶に橋の材料を車につんで海の中を引っぱらせたが車が海底にめり込んで動かなくなったので中止した。そのときの車の通った後が二条の岩になったのがカムイルイカで橋材が沈んで暗礁になったのが弁慶ゾリと言われる暗礁になった。”そうです。

・千代ノ浦の義経と弁慶の土俵伝説

千代ノ浦の臨港鉄道の踏切り近くで、今は人家が並んで不明だが、昔は広い砂浜が続いていた中に、黄色い粘土の地肌が円形に浮き出ていて、誰の目にも不思議に思われる場所があったそうです。“そこは昔から義経と弁慶が相撲ををとって力くらべをした所だからここで相撲をとると力持ちになる。”との言い伝えがあったそうです。

・春採湖畔の一本松伝説
春採湖の南岸、観月園停留所の東方に見える丘を廻ったところに、蝦夷松の老木がただ一本雑木の中に立っていて、その長い影を湖面に映していたそうですが、その木は“サマイクル(義経)が知人岬の上から、湖の水を飲んでいる鹿を見て射った矢がそれて、土にさわったところに根がはえ、芽を出して大きくなった。”そうです。
<釧路市>
「北海道義経伝説序説」阿部敏夫編著(響文社)
北海道各地に言い伝えられてきた義経伝説も興味深いのですが、何といっても義経主従が北海道に渡ったという文献や記録を調べて、実際にその足跡をたどって検証して裏づけをとり“義経のお墓の場所を発見した。”など実際に北海道に渡り、この地で最後を迎えたのではないだろうか?と思わせるような現実的であり夢のあるような探索記など義経ファンだけでなく歴史好きの人にも興味深い内容のお勧め本です。
<釧路地方の義経伝説を釧路観光の1つとして考えて楽しんでみませんか?!>のページ
厳島神社。
義経と弁慶がチャシを築いて住んでいた場所と云われているのがこの辺りで
「義経の舟」もこの場所にあったそうです。
釧路崎灯台下。
「知人岬の神橋」は、この下にあるとの事ですが写真の貯炭場付近は、釧路港修築工事で埋め立てられたところなので義経がいた頃は、海だった思います。
神橋は、もっと左手でしょうか?
対岸に白糠方面が見えます。あそこまで弓矢を飛ばすとは、凄い力です。
米町公園から。
阿寒の山が見える景色が気に入った!とのことですが建物もなく空気の澄んだ景色は、凄く素晴らしかったことでしょう。
知人崎眺望から。
釧路の夕日は、世界3大夕日の1つといわれていますが、義経と弁慶もここから美しい夕日を見ていたのかも?知れません。
※「神の橋(カムイルイカ)は、学名をサンドストンダイク(水成岩脈)といって、このような形態をして、海中に突出しているのはこの他にない珍しい現象で学術上極めて貴重な資料。」とのことなので是非、探して見たいものです。
紫雲台から知人岬の方角を望む。
神の橋は、先端に見える部分付近でしょうか?
紫雲台からでは、護岸しているようにしか見えませんでした。その先に知人礁というのがあるようなので調査の必要ありです。
ここから広尾まで直線で約115q、橋を掛けようとは弁慶の力は、計り知れませんね?
紫雲台から沼尻踏切り方向を望む。
「義経と弁慶の土俵」と云われる黄色い粘土の円形の土俵は、この辺りにあったと思われます。
只、昭和初期に春採湖の埋立工事が行なわれたので様子もかなり変っていると思います。
今でも土俵が残っていたら釧路から横綱が出ていたかも?
※春採湖の埋立
元々、春採湖は現在の倍近い大きさがありました。
昭和初期に全国的な大不況があり失業者救済のために大々的に春採湖の埋立工事が行われました。
現在の春採アイスアリーナ、コーチャンフォーさん付近や春採ショッピングセンターまた、柏木小学校やひぶな幼稚園の辺りも埋立地です。
埋立て時には、現在の野鳥観察場付近にプールを作ったようですが藻などが絡むために直ぐに使われなくなったそうです。
観月園跡付近を望む。
臨港線が人を乗せていた時期があり、その時に“観月園停留所”というのがありました。
観月園とは、料理屋さんなどがある公園のようなところで花見で有名なところだったそうです。観月園の名前の由来は、湖に映る月が美しかったからといわれています。
写真中央の崖と湖の間の雪で白い部分は、以前は、貯炭場で今は、桜の木などが植樹されていますが、ここも埋立地です。ですから大きな木であれば湖に映っていた可能性は、ありますので
「春採湖の一本松」は、この辺りだと思います。
義経が弓で知人岬から鹿を狙って外れた!との事ですが知人岬から鹿が見えるなんて義経は、視力も凄く良かったのですね!

※春採のチャシ
義経と弁慶が知人岬にチャシを築いた!とのことですが“チャシ”とは、砦(とりで)という戦場的な意味と集会場などの話し合ったり、楽しんだりする場所という意味があるようです。
春採のチャシというと“チャランケチャシ”を思い浮かべますが以前は他に“ウライケチャシ”(柏木小学校裏)と“チュクアツナイチャシ”(春採川付近)というのがあったようですが宅地造成などのために切り崩されたようです。今思えば残念なような気がします。
興津の「義経の窓岩」跡。
窓岩を探してみました。興津小学校の下付近にそれらしい岩を発見しましたが窓がない!ちょうど散歩をしている人がいたので聞いて見ましたら、何年か?前に崩れてしまった!とのことで残念です。
(後ほど、平成16年2月29日に崩れているのが発見された事が分かりました。)
現在は、近寄らないように看板があるようですが、この先に日本一の砂岩脈といわれる「春採太郎」があります。
多分、、斜線の部分付近が崩れたのだと思います。
崩れて残念ですが800年以上も開いた穴が維持できたということは、それだけ義経の弓の威力が鋭く綺麗に抜けたからでしょう。
崩れた部分は弁慶の矢が最初に当り亀裂が入っていたためだと思われます。
※春採太郎
釧路から根室間の海岸の崖に砂岩脈といわれる現象が200ヶ所ほど見られるそうです。
その、ほとんどが数cmくらいですが「春採太郎」は高さ30m(見える部分の高さで更に下に300m続いている)、左右4.4mで日本一の大きさだそうです、付近には、「春採次郎」という弟分のような大きさの砂岩脈もあるようです。
春採太郎につきましては
道東情報探検隊ホームページの探検ファイル“謎の巨岩 春採太郎を探せ”が面白くお勧めです。春採太郎の写真と共に崩れる前の窓岩や反対側(矢が来た方向)からの窓岩の写真も出ていますので、是非、参考に見てください!他の探検ファイルも面白く楽しめます。
 ・義経の銅像を米町に作ろう!

以上が知人岬付近に伝わる義経伝説です。
主な伝説は、義経と弁慶の弓勢合戦のようですから、そこで義経と弁慶像を米町付近に建造してみては、どうでしょうか?
「弓の矢が凄く遠くまで届き岩を打ち抜いたり、矢に根が生えて種がついた。」という話から弓を曳いている義経と横で控えている弁慶の像を作り“義経の曳いている矢を触ると願いが上昇気流に乗って勢い良く飛んで行き、どんな困難な目標でも願いが届き根がついて、やがて芽が出て達成できる!”などと効用も唱えられます。
そして、それに関連するお守りやグッズなどを考えてみたらどうでしょうか?
また、白糠の恋問の方に矢を向けて恋の問い合わせには、必ず思いが届き成就するかも?!”なども面白いと思いますが、如何な物でしょうか?!
 ・臨港線に義経ゆかりの愛称をつけましょう!

知人岬の義経伝説の地は、知人崎・沼尻踏切り・観月園停留場付近と臨港線沿線に縁があります。
日本唯一の石炭列車は、太平洋炭鉱が閉山して釧路コールマインが引き継いでいる現在も採炭された石炭が本州の火力発電などで使用されているため、春採駅から石炭運搬船の来る知人貯炭場まで1日に5〜6往復ぐらいしているようです。
この湖の横を通り更に太平洋沿いを走行する素晴らしいロケーションの路線を観光に生かしたい!という熱心なファンもいるそうです。
そこで臨港線に義経ゆかりの愛称をつけて、SL冬の湿原号の様に牽引する車輌に“よしつね号”とか“べんけい号”とかのヘッドマークをつけてみては、どうでしょうか?もちろん車体自体に絵を書くペイント列車でもいいと思いますが・・・2年前の臨港線80周年記念の走行をしたときにヘッドマークをつけていましたが良かったと思いました。
SLを撮影に来るカメラマンを見ると鉄道ファンの行動力は、凄いと思います。
鉄道ファンと歴史ファン共に夢を与える素晴らしい路線
になると思うのですが・・どうでしょうか?!
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・義経・弁慶にちなんだ石炭グッズを作りましょう!

北海道での石炭発掘は、1857年に安政の開港で幕府が外国船に石炭を供給するために海に面した白糠の石炭岬で採掘が始まりましたが、箱館までの運送経費がかかりすぎるために岩内の茅沼炭鉱に切り替えられたそうです。
このように白糠の石炭岬が最初の採炭地になっているようですが実は、白糠で採炭が始まる前年の1856年に“窓岩”の先の岩見浜で試験的に採炭が行なわれていました。
そう、どちらも義経が矢を放った方角なのです。釧路の主な採炭も現在の春採駅の付近から始まったそうなので“春採の一本松”もそちらの方角に矢を放ったことになります。
義経の矢が遠くまで飛んだのは、石炭のパワーに引きつけられたためかも知れません。
次のページでも紹介しますが義経は、炭鉱の町だった雄別方面にも狩猟に出かけていました。
ヒョットすると義経は、石炭を発見して鹿肉を焼いたり暖をとるのに使っていたのかも知れません。
そこで、先のお守りとダブルのですが、現在好評の石炭グッズの1つとして義経や弁慶にちなんだ、受験や各種試験、試合などに力を発揮させる石炭パワーグッズを作ってみては、どうでしょう?