ウミノウタ
 低いうなり声をあげながら、全ての母は全てを飲み込む。黄土に固められた大地は、母に合わせて形を変える。 右手にある黒くどっしりとした大きな岩に母はぶつかり、くだけた母はしぶきをあげる。塩辛い水が頬にはねて、僕は思わず身震いした。冬の海は冷たい。 群青色の海は、不機嫌そうに行ったり来たりを繰り返す。
「何を見ているの?」
気配もなく、首筋に吐息を感じるくらいすぐ近く、海に似合わない高く澄んだ声が、凛として言った。
「誰だ」
僕は驚いたのを必死で押し隠しながら振り返った。
「私のことを言っているの?」
そこには幼い少女が、とぼけたような顔で立っていた。
「お前以外に誰がいる」
「そうね、私ったら何を言っているのかしら」
鈴のような声をはずませて、笑顔になっているのである。
「私はね、母なる海の使い。あなたに御用よ」
「何のことだ。ふざけるのもたいがいにしろ」
「私、何も変なことは言ってないわ。そんな目で見ないで。信じて、本当よ」
僕が嫌悪感を抱きながら答えていると、少女は段々と勢いを失って、遂には下を向いて黙り込んでしまった。
「もう終わりか。僕はもう帰るぞ」
「待ってお願い。ねえお願いよ」
泣きそうになりながら、蒼い瞳でこちらを見つめてくる。
「それなら早くしてくれ。僕はそんなに暇じゃあないんだ」
「嘘」
「本当に帰るぞ」
「ごめんなさい、わかったから。ねえ待って」
「何だ」
僕はとうとう癇に障って勢い良く言った。
「あなたに贈り物があるの。ちょっと待って」
どこからか大きな壺が現れて、少女は中を探る。
「あ。あったわ、はいこれ、かあさんから」
白い小さな玉を、無理矢理僕の掌にのせた。
「何だこれは」
表面はつるつるとして硬く、光の具合で色が変わる。
「わからないわ。ただかあさんに渡せと言われただけなの」
「かあさんとは誰だ」
「あなたも呼んでいるじゃない。それとも違うの?」
「何を言っているんだ。質問に答えろ」
「かあさんよ。あの深い蒼をした。今少し怒っているわ。あなたがわかってくれないから」
「あの海の事を言っているのか」
「ダメよ、そんな風に呼んじゃあ。かあさんその言葉が嫌いなの。かあさんだって生きているのに、それじゃあ物みたいじゃない」
「それならお前は海の子だというのか」
「ウミなんて呼ばないで。かあさんと呼んで。そうよ、信じない?」
「信じられるわけないだろう。それに、お前はもう用が済んだ筈だ。さっさと帰ればいいだろう」
「それがね、そのう……」
再び下を向いて、なにやら恥ずかしそうにもじもじしている。僕は思わず、その仕草に胸が大きく動いた。
「何だ。また僕を待たせるのか」
僕はこの変な気持ちを悟られないようにしながら、怒ったように言った。
「お願いがあるの。今度、歌のコンクールがあるのよ。でも母上が許してくれなくて……ねえお願い、少しだけ、練習につきあって」
僕は何故か、この言葉に嬉しくなったような気がした。
「へえ、わかったよ。少しだけだからな」
「ありがとう」
少女の笑顔に、僕はぎくっとしたような、はっとしたような、妙な感覚がして、首を振った。
「早く歌えよ」
僕が急かすと、彼女は少し赤くなってから、そっと歌いだした。はじめは恥ずかしそうにしていたが、段々と緊張がほぐれたのか晴れやかな顔で美しい歌声を響かせるようになった。 彼女らしい澄んだ透明な歌。僕は思わず時も忘れて彼女の歌に聞きほれていた。

 高く長い譜を終えると、彼女は輝いて見えた。
「すごいじゃないか。もう僕なんか時間が経つのも忘れたくらいだ」 僕は本当に感動して、素直に感想を述べた。
彼女は照れたようになって、丁寧にお辞儀をした。
「おかあさんが認めてくれないんだってね」
「そうなの」
「どうしてだろうね、こんなに上手なのに」
「もう、お上手なんだから。母上は歌をやめろって言うの。そんなお遊びなんか、って」
彼女の沈んだ声に、僕はとても胸が痛んだ。
「お遊び……なんか、か」
「でもいいの。私ね、絶対大きくなったら、もっともっと歌を上手になって母上に認めさせてあげるんだから」
「ちょっと待って。母上って、海のことじゃないのかい?」僕はやっと気づいてそう訊ねた。
「ええそうよ。母上は母上よ。かあさんは歌を歌うの、ちゃんと応援してくれてるから」
「キミは、海の子じゃなかったのかい?」
「それは間違いないわ。私は海の子よ」
「なら母上は母上ではないのかい」
「私は母上の子よ。だってそうじゃない。あなただって、海の子だわ。皆、海から生まれたの、どうして信じられないの?」
「いいや、そんなことはないさ。そうかそうか……ああ、そうだよな。うん、頑張って」
「ええ。頑張るわ。ありがとう」
「うん、それならもうお帰り。応援してるよ」
「まあ、本当にありがとう。さようなら」
「さようなら」
彼女にはまた逢える。僕の心がそう断言していた。彼女がその道をあきらめない限り、僕はいつでも彼女に会えるような気がしてならなかった。 自分の魂という、もっとも不安定で価値の付け難いもの、それをさらけ出して値段をつけるのが、芸術家という仕事なら、 僕はその道がどこよりも険しく、危険なのかと思った。でも、だからこそその道でしかない深い喜びは自分だけのもので、だからこそ芸術家はやめないのだろうと、僕は確信したのだ。 そして、彼女との出会いによって、やっと僕は、目の前の道が開けた気がした。
「僕も負けないから」
小さく呟いてから、僕は恥ずかしくなって走り出した。もう彼女はとっくに居なくなっていたが、それでも僕はどうしようもない恥ずかしさに押しつぶされそうになって、真っ赤になっていた。 日が落ちる。目の前の明かりが全て消えてしまっても、もう僕は道に迷うこともないだろう。ありがとう、そう僕は海に感謝して、その場を立ち去るのである。