
LONDON UNDERGROUND BUSKER


英国イギリス・ロンドン名物のひとつ、「地下鉄バスカー」。
ストリートミュージシャンの事を英語で「Busker」と言い、Buskingとは、いわゆる路上演奏の事を指します。
英国でも、多くのバスカーが存在し、至る所で演奏し、街行く人々に笑顔と希望を与え続けています。
そして、「アンダーグラウンド」と呼ばれるロンドンの地下鉄構内にも、多くのバスカーが毎日演奏し、「アンダーグラウンドバスキング」は、ロンドン観光の名物のひとつでもあり、多くの観光客がその様子を写真や動画に写し、ロンドン旅行の思い出のひとつとして持ち帰ります。
2003年より、ロンドン地下鉄駅構内でのバスカー演奏は許可制になりました。
バスキングの歴史の長い英国では、古くより、地下鉄構内で演奏するバスカーは大勢居て、現在プロとして活躍しているミュージシャンの中にも、地下鉄構内でのバスカー経験者は多く、そして、許可制になるまでは、演奏場所争奪等のバスカー同士の闘争も耐えなかったそうです。
2003年より、ライセンス制度になった地下鉄バスキング。
毎年募集される、公式バスカー・ライセンス・オーディションでは、イギリスのみならず、世界各国出身のミュージシャンが、地下鉄での舞台を目指し、厳しいオーディションに挑みます。
大勢の希望者が自身のプロフィール、音源、写真等をエージェントに送り、そこからエージェントが人数を絞り込み、数十名のバスカー希望者が最終実技オーディションの舞台に立つ事ができます。その最終選考を突破した者が、晴れて英国の公認ライセンス・バスカーとなる事ができるのです。
最終実技演奏では、「実際にバスキングを演る時と同じスタイル」で、実際に地下鉄構内(但し、現在は使われていない閉鎖された駅)で行われます。この時に持った楽器、演奏スタイルが、ライセンスに記録されますので、ライセンスに記録されていないパフォーマンスに、同じライセンスのまま後に変更する事はできません。
最初の書類投稿から、オーディション突破、最終審査後に合格した者が、国より正式な許可を得てライセンス発行に到るまで、約10ヶ月〜1年以上の時間を要します。
難関を突破し、合格し晴れてライセンスを持ったバスカーは、毎週始めに、エージェントにて2週間後のブッキングをします。
ルールは1駅2時間、ブッキングは基本的には2駅(4時間)まで。
毎週のブッキングにて、2駅=4時間までの場所を得る事ができます。そして、バスカーたちは名物・地下鉄バスキングの舞台にて、独自のバスキングスタイルで演奏デビューします。
ヨーコ ハレルヤ合格当時では、バスカーの公式マネージメントエージェントがあり、エージェント管理の元、新人バスカーには厳しい規制ありました。
新人は、いきなり、「ピカデリーサーカス」「オックスフォードサーカス」等の主要駅では演奏する事ができません。
セントラルより少し離れた駅や、比較的バスカーに人気のない駅等、約20ピッチ程の少ない場所のみの制限の中、「○ヶ月以内に○ピッチ以上演奏」等のノルマが与えられ、そのノルマをクリアするまで、主要の目立つ駅で演奏することはできません。
同時に、そのノルマをクリアするまでの期間は、ブッキングにも規制があり、当初の新人バスカー達は「先輩達がブッキングを終えた後の残りの場所」内でのブッキングになります。
当然、仕事としてあまりよくない場所ばかりが残り、またその数も少ない中、新人達は残りのピッチの中より自分達の仕事のブッキングをしますが、その場所でのバスキングの想像以上の厳しさから、ノルマをクリアできないまま辞めてしまったり、ノルマをクリアする事を考えず、あくまで細々と、主要駅外でのんびりやるバスカーも居ます。
ノルマクリア後、晴れて、主要セントラル駅でのバスキングの華舞台に立つ事ができ、顔を合わせた同期のバスカーはほんの数名でした。
当時は、それほどに新人規制が厳しく、その制限の中でのバスキングは想像以上に過酷で厳しいものでした。
大げさに言うと、普通に毎日2駅演奏していたのでは暮らせていけない程の厳しい場所だったゆえ、新人時代は、とにかく先輩達がキャンセルされた駅等を頂き、一日5駅=10時間の演奏もごく普通の事でした。
但し、その頃は地下鉄バスキングも大変活気あるもので、賞金獲得できるバスカーのコンテストや、メディアのサポートも強く、当時約500人近くのライセンス・バスカーが、地下鉄構内にて活動していました。
2008年のバブル崩壊に合わせるかのようなタイミングで、我々バスカーのマネージメント・エージェントは閉鎖。スポンサー二社が撤退したためと思われます。
その後、約2ケ月程は、バスカーの公式なブッキングシステムがない状態が続き、数名のバスカーが、粘り強く日々、場所を探しては演奏を続けました。(ハレルヤ本人含む)
その頃の地下鉄構内は、どこを見てもバスカーが居ない、音楽が響かないような閑散とした状況で、駅構内の通行人の活気もなく、英国の景気の後退を匂わせる風景でありました。
この期間に、バスカーとしての継続の難しさを悟り、職業を変えたり、又本格的に自身のプロモーション活動のみに力を入れる等、多くの公式バスカーが地下鉄の舞台を去り、その数は約200弱まで減ったかと思われます。
後に、tfl(トランスポート・フォー・ロンドン)内に、バスキングのサポートチームが発足、地下鉄バスカーのマネージメントを代行する事になりました。現在もロンドン市長の管轄、許可の元、我々地下鉄ライセンスバスカーは、以前と変わらず、毎日のように地下鉄で演奏する事が出来ています。
ただ、現在はこの新人規制のプログラムが継続しているか定かではなく、場所や時間の拘束に関しても、以前よりは少しアバウトな部分もあるかもしれません。国側も、バスカーのマネージメントにまだ不慣れな部分もあり、バスカー内でのルール変更や、ピッチの閉鎖等も常時行われている、不安定な状態です。
現在、約100名程の国公認のバスカーが地下鉄構内にて演奏しております。
地下鉄構内の通路脇にある、半円を描いた小さなピッチは、我々のステージであり、また、通行人の皆様のデュークボックスでもあります。
厳しいオーディションを勝ち抜いてきたバスカーは、プロとしてのレコード・リリースの経験のある者も多く、もちろん、バスキングだけでなく、現役でプロとしてメディアで活動しているミュージシャンも沢山居ます。
中には、バスカーとしてのプロフェッショナルも多く、「バスカー歴20年以上」というミュージシャンも居ます。
そして、将来、大きな夢と希望を持つ、そのためのステップの第一段階として、バスキングに挑む若きミュージシャンも多く、ロンドン・アンダーグラウンドの小さな半円のステージの中で、多くのバスカー達は、「我々の夢と通行人の皆様の夢をひとつにする」、そんな希望を与えるような演奏を目指し、皆様の笑顔を見るために活動を地味に続けています。
傍目から見ると、時に「美味しい仕事」「楽しそう」に見える、ロンドン・アンダーグラウンド・バスカー達ですが、日々賭けのようなプレッシャーの中、地味な労働者として我々は働き続けています。
そして、現在も、通行人からの多くのジャッジや、反バスカー体制の圧力、バスカー同士の闘争も耐えません。
しかし、バスカーの皆が「通行人の方の笑顔を、より多く見られる事」そんな些細な夢を持ち、マイナスの力を吹き飛ばし、プラスのパワーを皆様に与えることが出来るよう、演奏しております。
「地下鉄の主役は、我々ではなく通行人である」
我々皆がこの想いをモットーに、自分のプロモーションとしてのステージではなく、観光客の皆様の思い出のひとつとして、そして、ロンドナー達の通勤、帰宅中の、少しの心の癒しになれるような、そんな演奏を目指しております。
ロンドン在住の皆様、
いつも皆様の笑顔に会える事を楽しみにし、皆様の英国での活動を我々は地下より影ながら応援しております。
ハレルヤもまた、一日4時間〜10時間のバスキングを、現在も毎日続けながら、皆様に会える日を楽しみに歌い演奏しております。
そして、日本の皆様。
英国に来られた際には、是非一度、ロンドン名物の「地下鉄バスカー」の演奏をお楽しみ下さい。
ギター、ボーカル&ギター等の王道のスタイルのみならず、ハープ演奏、管楽器各種、クラシック演奏、オペラ歌手、ジャズ歌手、ジャズ奏者、アフリカンミュージック、パーカッション奏者、コミック歌手等、様々なバスカーの多さと、そして、英国での「バスキング」という職業に賭ける英国バスカー達の情熱に驚く事と思います。
つい先日、友人の一言で気がついたのですが、
「エア・ギター奏者」が居ませんね。
無謀だと思うのですが、誰かオーディションに挑んで欲しいです。
過去に何人かトライした方が居そうな気もしますが。
2010/Yoko Hallelujah

on "Metro"(4th of May/2010) copyright(C)2010/Metro/tfl media team

@Charing Cross station
copyright(C)2009/kazuhiko watanabe

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レッツ流し!! 
〜もうひとつのハレルヤ物語〜
「流し」とは、文字通り「流れる事」ですが、古くから使われる言葉として、
「お客様を求め、街中や店を渡り歩き歌い演奏する」事を指します。
さあ、皆さんも、レッツ、流し!
その意味通り、現在も「流し生活」=「バスキングライフ」を送る
生粋の流し女・ヨーコ ハレルヤ。
ハレルヤのリアルな流しデビューは、2004年、舞台は沖縄宮古島でした。





2004年、人生で初めての長期休暇を取り、イギリスへ一人旅したヨーコ ハレルヤは
英国・リヴァプールにて、ひとりの英国人バスカーに出会いました。
当時、音楽業界のさまざまな困難や、不審に巡リ続ける誘惑に苦しみ、自分の実力に悩み続け、
そして音楽を辞めようとまで思い決意した、休暇でした。
ハレルヤは、この旅行が終わったら、音楽の世界より姿を消すつもりだったのです。
文字通り、音楽の最後を締めくくるため、初めての休息を取り、憧れであったFab Fourの聖地を初めて訪れたハレルヤは
2004年のバレンタインデーにその青年の演奏に出会いました。
リヴァプールのマシューストリート、ビートルズショップ前で歌っていたその青年は、
決して上手ではないギター演奏、しかしその青年は終始笑顔で、霧雨の中歌い続けていました。
そのバスカーの歌声には魂、そして愛がこもっており、そのソウルはハレルヤの心に響き、気がつけば頬に涙がつたっていたのです。
リヴァプールの青年のバスキング演奏に感動したハレルヤは、
(自分にもまだやれることがあるかもしれない)
そう思いました。
そして、
「一年以内に青年と同じ”マシューストリート”でバスキング演奏する!」
と、その場で心に誓い、当時、ボーカルスタイルのみで楽器もろくに演奏できなかったハレルヤは、日本に帰るとすぐにギターを購入。
オリジナルカスタマイズをし、今では皆様おなじみのギターとなりました。
同時に、リヴァプールへの演奏の糸口を探すため、英国関係の多くの旅行会社や大使館等に手紙を書き始めました。
雑念と誘惑が多い東京より、逃亡先として選んだのは、沖縄・宮古島。
当時全くギターが弾けなかったハレルヤは、何故かギターを持参。
同じ時期に宿にヘルパーとして宿泊していた、偉大なギタリスト、ジョー・パスをこよなく愛す青年ギタリストと意気投合、
ど素人のハレルヤと、クラシック奏者なみの上級ギタリスト青年は、宿先でセッションを始めます。
当時の宮古島の宿のハレルヤ滞在時には、宿の玄関先に入ると、ハレルヤがいつもギターを鳴らしており、それが日常の風景となっていました。(写真・左)
そして間もなく、宮古島にその年一番と言われた大型台風が上陸しました。(写真・右)
台風が上陸すると、3日は外に出られないと言われる程、台風の被害が大きい宮古島。
宿に缶詰になった宿泊客を元気づけるため、ハレルヤはギターと歌を披露します。宿泊客の中には、外国から訪れた家族も居ました。
「人前では演奏したくない」
そう口癖のごとく言っていた青年も、ハレルヤにつられ、思わず演奏に参加します。
そしてこの余興は、ハレルヤと青年の、人前での初セッション披露の舞台となりました。
ハレルヤと青年のセッション曲は、アントニオ・カルロス・ジョビンの「Wave」と、Fab Fourソング数曲のみ。
しかしながら、飛ぶ鳥を落とす勢いのハレルヤは、青年を半ば拉致し、バスキングへと連れ出します。
これが、ハレルヤの初路上演奏となりました。
そこは、宮古島・平良市の小さな路上、夜22時半すぎの事でした。
バスキングで得た収入を片手に、ハレルヤと青年、そして宿の皆は、平良市のJAZZバーに
祝杯をあげるため訪れました。
ここでも、身の程知らずのハレルヤは、ハッタリで
「我々はJAZZミュージシャンなので演奏したい」
とオーナーに申し出ます。
快く引き受けてくれたオーナーのおかげで、宮古島でのJAZZバーデビューに到りました。(写真・中央)
これらの演奏は、当時、全くギターのど素人であったハレルヤをサポートした、
完璧なギター奏者であるその青年のおかげで、素晴らしいデビューを飾る事ができました。
後に、イギリスでのバスキングデビューの夢を、強く後押しした、この青年との出会いがなければ、
ヨーコ ハレルヤは皆さんとロンドンの地下鉄でお会いする事がなかったかもしれません。
青年の名前はレオ。
今もどこかの海辺で、Waveを奏でているかもしれません。




2004年の終わり、英国での路上演奏許可のため、多くのレターを数々の会社に送りつつも
全く反応なしのハレルヤに朗報が来ました。
リヴァプールのシティ・カウンシルより、路上演奏の許可を与える、との知らせが来たと、
リヴァプール公式旅行案内会社「スカウスハウス」より連絡がありました。
路上演奏の許可が下りたのは、2005年、バレンタインデー。
ハレルヤは、英国リヴァプールで出会った青年バスカーが演奏していた同じ場所、
そして、同じ日に、英国でのバスカーデビューを飾る事ができたのです。
Fab Fourで有名な目抜き通り、マシューストリートは、当時は監視も厳しく、
許可なく路上演奏等をすると、ポリスに連行される事もあるようでした。
ポリスに捕まってもかまわない、と笑うハレルヤに対し、そのストリートでの許可や、
バスキング演奏に関しての手配は、リヴァプール・マシューストリートの管轄であるシティ・カウンシルのテリーさんが
指揮を取ってくれ、そして当日にも付き添っていただきました。(写真・左)
演奏当日は、「ピンクのハンチング帽」がハレルヤとテリーさんの、待ち合わせの目印でした。
その事もあってか、ハレルヤが到着した日は、いろんな観光店より
「もしかして、君はヨーコ・ハレルヤだね?」
と、歓迎の声を頂きました。
マシューストリートでの演奏を終えて帰ろうとするハレルヤを、テリーさんは引きとめ、
次に向かった先は、Fab Fourの演奏で有名な「キャバーンクラブ」でした。(写真・右)
「キャバーンクラブ」「キャバーンパブ」のオーナーに、テリーはハレルヤの話しを出し、それらの場所でのハレルヤの演奏許可を頂いていたのです。
この、ストリート演奏と、キャバーンクラブ&キャバーンパブでのサプライズ演奏を聞いた
英国人ジャーナリストは、演奏後にハレルヤにインタビューを求めました。
このインタビューは、後に英国リヴァプールの新聞のトピックとして、大きく取り上げられました。(写真・中央)
但し、当時、全く英語が理解できなかったハレルヤと、日本語が全くわからないテリー、
そしてジャーナリストで進めたインタビューのため、記事内に、多少内容が異なるワードも多くあります。笑
2004年に、再び生まれた夢、「あのバスカーのようにマシューストリートでバスキングをする事」。
2005年、丁度一年後に、ハレルヤは小さな奇跡を起こす事ができました。





2005年バレンタインデーの、キャバーンクラブでの英国デビューを終えて東京に戻ったハレルヤ。
しかしながら、その英国熱は冷めず、3ケ月に1度というペースで、日本から英国へトリップを続けます。
トリップ中には、Fab Fourの初期の演奏場所として有名な「ジャカランダ・クラブ」でのJAMセッションにも参加。(写真・左)
同時に、沖縄・竹富島で出会ったアーチストの作品を、リヴァプールへ持ち込み、
平和のアートを、Fab Fourゆかりの地に展示するという、愉快な平和活動も実施しました。
英国へのトリップを繰り返しながら、ハレルヤは、横浜・山下公園でのバスキングを始めます。(写真・中央)
その後、活動を路上だけではなく、東京のライブハウスやバー等でも弾き語りのステージを始めました。
2005年の秋、ハレルヤは、ひそかに渡英の計画を進め始めました。
その当時より渡英直前まで、ハレルヤの渡英計画を知っていたのは、ハレルヤの親友ただ一人でした。
自身で計画を進めるうち、皮肉なことに、東京での音楽活動に火がつき始め、音楽仲間や演奏場所、オファー等が
急激に増えはじめました。2005年の10月末頃のことです。
気心しれた友人達、増え始めた新しい仲間、そして住み慣れた街、愛着のある街を離れる事に
ハレルヤの心に迷いが生じます。
(やはり東京でもう一度頑張ってみようか。東京を離れたくない。)
そんな事を思い、渡英計画を中止しようと考えた時にハレルヤの背中を押したのは、ハレルヤの生き方を批判し続けていた、
遠い故郷に住む父の一言でした。
やりきれない切ない思いを埋めるため、それから渡英までの期間、ハレルヤは冗談交じりで「やりきれナイト・クール」という、
3ケ月の無謀な単独ギグ・ツアー活動をはじめます。
ハレルヤは、休む事なく、渡英の前日まで、到る所でライブ演奏を繰り返しました。
その事で、愛する仲間、愛する街東京を離れる寂しさを紛らわしていたのです。
「男は黙って去る」をモットーとした男気女・ハレルヤは、誰にも別れを告げずに、全てを捨てて成田を出ようとしました。
最後に涙を見せてくれたのは、親友と、その親友からハレルヤ渡英の話を聞いた、
ハレルヤの一番信頼していた仕事仲間でした。
最後に彼女は
「行かないで!」
と潤んだ瞳で子供のようにハレルヤに言いました。
生き急ぎ、走リ続けるハレルヤを止めようとしたのは、後にも先にも、彼女ただ一人でした。
2006年1月末、長く戦い続け、そして幾度と無く負け続けた、東京の空を飛び立ちました。
それはとても晴れた日曜日の朝でした。






2006年。渡英して約一週間後に、ブルーズのステージにて初舞台を踏んだヨーコ ハレルヤは、友人のブルーズミュージシャンの薦めで
ブルーズを歌い始めます。
同時に、レコーディング活動の開始や、東京時代より憧れであったジャズの世界にも本格的に興味を持ち始め、2006年〜2008年の間、ほぼ毎日のように
ブルーズやジャズのセッションを夜な夜な繰り返し、ステージの前には毎日のように、スラム地区の格安スタジオを借り、ひとり練習を重ねていました。
多くのプロフェッショナルミュージシャン達と交流を持つ事ができたハレルヤは、独自のキャラクターで、その友人達のステージにも
ゲストで出演、ロンドンの音楽プレイスの夜の顔となる一面も多くありました。
また、2006年の渡英当初、友人のブルーズバンドのギグの会場にて、ゲスト参加させて頂いていた時、時を同じくして、
同じステージにて友人のバンドにてゲストで歌っていた、英国人女性シンガーが居ました。
近寄りがたい、昔の言葉で言うと、とっぽい雰囲気を持った、細くて折れそうな身体をした、野生のような目をした女性ブルーズシンガー、
友人の英国人ギタリストは彼女の事を
「ロンドンではわりと有名な歌手だよ。」
とハレルヤにそう伝えました。
彼女の名前はエイミー・ワインハウスと言いました。





2007年には、英国バーミンガムのレコードレーベルより誘いを受け、パンク・アイドルユニットのレコーディング、ギグ活動も開始。(写真・右2部)
歌う事が何より好きなハレルヤは、ジャンルにこだわらず、多くの音楽に挑戦し続けます。
ロンドンで多くのギグを行いながらも、公式案内会社「スカウスハウス」の粋なはからいで、2007年のリヴァプール・ビートルズフェスティバル中に
「ジャカランダクラブ」でのヨーコ ハレルヤ・単独ギグに成功。その他、パブ・ホワイトスター等でも他バンドのゲストで登場。(写真・左2部)
世界中から多くのFab Fourファンが訪れるこのフェスティバル期に、ハレルヤのFab Fourカヴァーもリヴァプールの街に響いていました。
毎年リヴァプールにて開催される、この世界的なフェスティバルには、2006年には日本一のFab Fourトリュビューター、リッキー廣田氏が公式参加し、
ロンドンでも単独ギグを行いました。2006年のその際には、ハレルヤはリッキー氏のロンドン公演にゲスト参加をしました。
Fab Fourゆかりではじまったヨーコ ハレルヤの旅は、Fab Four関連の多くのイベントにリンクした、運命的な旅になるのでした。





2007年後期には、当時、ロンドン東西南北にて行われていたジャム・セッションのプレイスをほとんど制覇し、
夜のジャムプレイスの主要メンバーとして、多くのセッション会場から歓迎されていました。
会場では、有名なミュージシャンの参加も日常茶飯事に行われているロンドンのジャムプレイス。
ハレルヤも、多くの著名なミュージシャンとのセッションや、交流を交わし、ミュージシャンシップを持ちつつも、修行の日々を続けていました。
この頃には、ハレルヤは、ブルーズよりもジャズのプレイスに顔を出す事が多く、より多くのジャズ曲のレパートリーを持つため、
渡英当初より欠かさなかったスタジオ通いも、レベルの高いジャズ歌手に追いつくため、多い日では5〜6時間と、ジャズの練習を重ねていました。
日本語アクセントかつ、英語力の至らないハレルヤに対し、プロのミュージシャン達はあたたかく受け入れ、そして時に厳しい指導をしてくださいました。
2006年からの、日々のジャムセッション活動と同時に、ハレルヤは英国のロンドン・アンダーグラウンドバスカーのオーディションにエントリーをします。
渡英当初、周りにライセンスを持つバスカーはいたものの、情報をたずねても誰もが終始無言であり、
英語にも不慣れであった当初は、オーディションの情報はつかめぬまま2006年が終わろうとしていました。
そんな時、当時フラットメイトであったジャズドラマーの男の子が、オーディションの情報と、申請アプリケーションフォームをハレルヤに渡しました。
数ヶ月に及ぶ選考の後、2007年の夏に、ヨーコ ハレルヤは、晴れてバスキングオーディションの最終選考の舞台に立つことができました。
オーディションでの最終実技審査でハレルヤが演奏したのは、Fab Fourの曲でした。
アンプもマイクも使わない、生身のアコースティック・バスキングを希望で挑んだ、実際の駅構内を使った会場で、実技を披露したとき、
あまりの音響の悪さ、声と音の響かなさに驚いたのを覚えています。
オーディション会場にハレルヤが立ったとき、審査員の誰かが言いました。
「もしかして、君はヨーコ・ハレルヤだね?」
そういえば昔、そんな夢を見たことがあるような気がします。




























































2010年。
不況の続く、暗い世の中。
英国の空は、今日も曇り時々雨。
明日の太陽を待つ気持ちも忘れ、人々は急ぎ足で、アンダーグラウンドの通路を歩いて行きます。
その先には、誰かが待っているのかもしれない。
誰も居ない一人きりの部屋へ戻るのかもしれない。
仕事に追われ、また再び働きに戻るのかもしれない。
しかし、そんな時でも、人々は音楽を、そして笑顔を求めているのです。
もし、あなたが、誰かの待つ、あたたかい家に戻るのであれば、私達がその幸福を一緒に祝ってあげましょう。
もし、あなたが、誰もいない部屋へ戻り、ひとりきりで寂しい想いをするのであれば、私達がその想いを抱きしめてあげましょう。
もし、あなたが、仕事に追われ、そしてもしも人生に疲れ果てているのであれば、私達と一緒に笑顔を作りましょう。
嬉しい時も、悲しい時も、苦しい時も、一緒に笑いましょう。
どんなに辛い時でも、一緒に歌い、笑いましょう。
その少し先には、きっと、太陽が見えるはずです。
Never ending story.........
私のバスキングライフも、そしてあなたの人生も。
Yoko Hallelujah @2010
親ビンの独り言。
私は汚い人間です。
私は卑しい人間です。
私は、自分が誰よりも幸せになりたいと願い、そして自分よりも不幸な人間を見てほっと肩をおろしてしまう、
私は心の貧しい人間です。
私は、心から嬉しいと、幸せと感じた事がありませんでした。
いつも幸せそうな人を見て羨み、妬み、
そして幸せと感じない自分という人間を周りのせいにする、そんなずるい人間です。
そんな汚い人間が、自分の好きな事を、好き勝手やってきたのです。
そして今も、
好きな歌を歌い、その瞬間だけ、自分の卑しさを忘れ、ささやかな幸せを感じる事ができるのです。
そんな時に、私の前を通り過ぎて行く人たちが、そんな私に笑いかけてくれるのです。
そして、その同じ瞬間に、私も笑っているのです。
騙されても、嫌われても、なじられても、けなされても、苦しくても、死にたいくらい辛くても
私はその瞬間だけは、笑っているのです。
そうして、どんなにボロボロに傷ついていても、
人間を愛したい、そう強く思う矛盾した自分が存在し、
私は、目の前を通り過ぎる、名も知らぬ人を知らずに愛しているのです。
その見知らぬ人が私に笑いかけてくれた瞬間に私は感じるのです。
もしかしたら、私は誰よりも幸せかもしれないと。
私は何かを探すために歌を歌いはじめました。
それが何なのかは、未だに分かりません。
一生手に入らない、難しいものなのかもしれません。
もしかしたら、最初から何も探していなかったのかもしれません。
ただひとつ言えるのは、
自分が生きていると感じるのは、歌いながら誰かの笑顔に逢えた瞬間、
それだけかもしれません。
私は、寂しくて虚しくて、そしてあほらしい道を歩んでいるのかもしれません。
永遠に、ゴールの見えない道を歩んでいるのかもしれません。
でもその道は、自分で選んだ、自分にしか歩んでこれなかった道なのです。
私は、自分の事を誰よりも馬鹿だと感じます。
私は、周りの人達の人生をいつも羨ましく思います。
でも、そんな馬鹿な道を歩いている、自分の馬鹿な人生を愛しています。
日々、逃れたいと思いながら、泣きながら歩いている自分の道を、
矛盾しているかもしれませんが、愛しています。
そんな馬鹿な人生を愛している私は
きっと、またボロボロになるかもしれません。自ら、ボロボロを選ぶ事もあるかもしれません。
ボロボロになっても、踏みつけられて泥だらけになっても、
また傷が増え血だらけになっても、
人間には、幸せになれる瞬間が、きっとあるのです。
自分でも気づかないような、その瞬間に、
どんなに辛い時でも、人間は笑顔になれるのです。
その瞬間こそが、全ての人間に平等に与えられた、至福と夢の時間なのです。
自分で選んだ人生です。
自分で選んだ、長い長い、馬鹿な旅路です。
そんな旅路の途中で、多くの笑顔に出逢える今この瞬間を、私はとても誇らしく思います。
出逢ってくれてありがとう。
洋子

copyright(C)2010/Metro/tfl media team